「私は神を信じる」だけでは神を信じたことにならない。「私は神を信じる」のならば、「私はあなたを信じます」と神さまに祈ることだ。なぜなら救い主イエスさまは弟子たちに「私の名前で祈ってごらん」と言ってくださったからだ。ですから、イエスさまの名前を用いて、「私はあなたを信じます」と祈るならば、必ず父なる神さまが答えてくださる。ここに信仰が働くのだ。「私は神を信じる」とだけ言い続けているだけならば、それは単なる独り言である。
30年ほど前のことである。一人の求道者が初めてお祈りにチャレンジしたのだが、途中で「独り言を言っているみたい」笑ってしまわれた。独り言でない世界がすぐ近くに近づいてきているのに・・・・
宗教は、いつしか中心が消滅し、真空管のようになっていくので、表面・表象に力を入れるようになる。儀式化もそうである(儀式が問題なのでない、中心を失った儀式が問題)。今大切なことは、自分は中心からどれぐらい離れているかの自覚ではないだろうか。中心からどのように離れているのかの自覚ではないだろうか。中心から離れていることを自覚した時に、その位置から悔い改め(考え方を変える)ることができる。ブーバーは中心が消滅した宗教を「それ-宗教」と言う。
私は今もカルビニズムという土俵を思い浮かべつつ、そのカルビニズムのアンチとして生きている。きっと私が穏健カルビニズムの超教派の神学校に行ったからだろう。カルビニズムのアンチとして生きているということは、カルビニズムの論理的な確かさの影響をかなり受けてきたからこそ、である。だからこそ自分なりにカルビニズムの受け入れがたいところを補完するような気持ちになってやってきたのだと思う。通常はそれを穏健カルビニズムというが、私は穏健カルビニズムではなく、一応、メノナイト 。
私の場合は、「個人から社会に」の生き方しかできない。
「個人から社会に」の道は、途方もなく困難な道である。
もちろん、個人と社会の間には共同体があるのであるが、
でも重大な問題は共同体といっても色々あるということ。
小さい共同体と大きい共同体は全然異なる共同体である。
「二三人の共同体」と「三四人の共同体」は全然異なる。
我らは、個人から社会に向かうとき、まず少人数で躓く。