1232、もしすると人間は独話と独話の独話同士で対話の演技をしているのではないか

 もしかすると人間は独話と独話の独話同士で対話の演技をしていのではないか。もしそうならば、これこそが「お笑い」である。確かに「お笑い」で面白いのは、独話と独話で対話の演技をしている人間の真実を明らかにしてくれているような「お笑い」である。昔、こんなことがあった。一人の求道されている方にお祈りすることをお勧めした時、その方は一度は祈ろうとされたのであるが、突然「独り言みたい」と言われて笑ってしまわれた。当時の私は、そのような反応に困ってしまったが、今思えば、これって深い内容だと思う。人間は本来、独話のほうが得意なのだ。神との対話である祈りを本気で信じることができないものなのだ。そこを乗り越えることがクリスチャンの道である。つまりブーバー「我と其れ」の世界から「我と汝」の世界に変わる瞬間である。

1231、カウンセリングも独話の療法だと思うのです

最近、これは独話だろうか、それとも対話だろうか、と考えることが多くなりました。対話の追求の世界もあるけど、独話の追求の世界もあるんだろうなあと思うようになりました。突き詰めれば、本当の対話は人格関係的方向に行くが、本当の独話は非人格的方向に行くだろうなあ。きっとロジャーズのカウンセリングよりも12ステップの自助グループのほうがちょっとは対話に近いんだろうなあとも思う。しかし人間の知とは通常、独話的世界で確立していく世界のことなんだろうなあと思いつつ、私は迷いの森で今日もさ迷う。

1230、クリスマスは私たちの神像を打ち消すためにあるのではないか

クリスマスは私たちの神像を打ち消すためにあるのではないか。当時、誰一人として完璧な神像でキリストを迎えた人はいなかった。マリヤもシメオンもアンナもみんな、自分たちの神像を打ち消されざるを得ない経験をした上でキリストに出会ったはずである。21世紀の私たちの時代も同じである。お金による支配構造を神とする人たちがいる。軍事力による平和実現という神像を描く人たちがいる。自分を神として描き自分の世界を広げる以外のことは考えていない危ない人たちもいる。自分も神の一部だと汎神論の世界に吸い込まれている人たちもいる。無神論というものの実は無神論という神を拝む信仰者たちもいる。突き詰めて考えていくと、やはり人間は自分の考えのなかで神を所有したいのである。自分の描く神を所有することで安堵に至ると信じているようである。非人格的な神像を所有すると、反対にそれに縛られていくのが偶像崇拝というものであり、依存症現象なのである。しかし、そのような人間の神像が空しく消え去っていくしるしが、クリスマスの飼い葉桶のイエスさまである。アーメン・・・

1229、中心があって、中心から周辺に向けての距離に関心を持とうと思う

 中心があって、中心から周辺に向けての距離感に関心を持とう。中心があり周辺があるというイメージに集中したい。では中心に何があるのか。中心には存在があるが、同時に関係がある。関係があるということは対話があるということである。対話があるということは、異なるもの同士の人格関係的対話があるということである。中心に異なるもの同士の対話があるということはどうゆうことか。中心に永遠の汝、「我と汝」の対話がある。永遠の汝、「我と汝」の対話を支えてくれているのがイエスキリストである。我々は「イエスキリストの御名を通して」祈るのである。では周辺に何があるのか、周辺には「我と其れ」がある。周辺に行けば行くほど、距離が離れれば離れるほど「我と其れ」非人格関係的な世界に入っていくことになる。

1228、保守的な同じ結果を目指して、別の方法論を探し求めよう。補完するために

牧師は周辺的事項については、それぞれ異なる神学を反映させていると思う。それぞれ確信を頂いているからだ。しかし中心的事項に関しては保守的な同じ結果を目指していると思う。保守的な同じ結果を目指さねばならない。ただ別の方法論で保守的な同じ結果を目指すロマンがあっても良いと思う。補完神学だという位置付けをしっかりしながら・・。

1227、説教は未熟な説教と思われても、主観が横行する説教と比較できないほど尊い

TCCの説教学の授業で、流暢に話す説教が徹底的に批判された。私は注解書を読むような説教だったが、なぜか良しとしてくださった。この経験が私の説教に対する心の拠り所となっている。10年間は完全原稿、下を向いて説教しても良い、仕方がない、教会の寛容さのなかで牧師は育っていくものだという雰囲気を身につけた。今も変わらない。主観だと誤解されるような説教は牧会に反映していく。信徒説教者を期待しているが、ある人と和解ができていないなら、それだけで説教はできないだろう。説教というものはそうゆうものだ。慣れ、ではない。思い切り、ではない。未熟な説教と思われても、がっばって聖書に取り組む、その姿勢のもとで、教会は祝福されていく。アーメン

1226、教会は二元論の線をきちんと引くべきだろう。一元論的真理に気づいていても

 今週の説教でも、この世と教会は違う、価値観が違う、というふうな説教になった。ただ合理的に二元論的に区分け仕切れるものではないことはわかっている。ただ世の価値観が教会に入ってきて、それはそれで良しとするような空気になったとすると、もう教会は教会ではなくなる。創造論的にこの世に神の価値観が残存していることを認めつつも、世は悪なりとの御言葉を心に受け留めて説教していきたい。