1188、特に重要な区別は、祈りは瞑想ではないということである

この区別がどれほど重要であるか、この区別がクリスチャンのなかであまりにも曖昧になりすぎているのではないか。私もピーターバーガーと同じ気持ちである。

 

「まず、多くの『霊性』が巷に氾濫している今日、特に重要な区別は、祈りは瞑想ではないということである。瞑想にはいろいろな形態があるが、そのほとんどは内面的に向かう動きである。各人が自分の内面に注意を向け、自己を『中心に据え』、自意識の深みにある何らかの救いの真実を見つけ出そうとする。いわゆる自意識の深淵に、精神分析が解明してくれるという怪しげな礫瓦以上の何かがあるのかどうか、またそもそもわれわれの内部にそのような深みなど存在するかどうか、という問題はここではどうでもよい(わたしはその両方に懐疑的である)。しかし、もしこのような内面の深みがほんとうにあるとわかっても、そこに神が見つかるかどうかは問いとして残る。ひとことで大事な点を言えば、祈りはそういうものではない、ということである。祈りは、内ではなく外へ注意を向ける。それは語ることであって、無言の実在に浸ることではない。わかりやすくするために、こうしよう。預言者イザヤが座禅を組んだ状態でメッセージを語る姿を想像してほしい。おそらくうまくゆかないだろう。それどころか、座禅を組んだままでは「主の祈り」を口にすることさえ難しいであろう。もちろんこれは、時間を分けて別々に祈りと瞑想を行う、という可能性も排除するものではない。交互に繰り返すこともできるだろう。だがそれをここで追及する必要はない(そんな可能性にはあまり興味もない)。」(「現代人はキリスト教を信じられるか」ピーター•L・バーガー)