1214、傲慢に比べれたら・・・は、ノミに食われた程度のことに過ぎない(CSルイス)

人は他人の傲慢を見ぬけると自慢する。でも人というものは、他人の傲慢はよく評価でき、分析できるものなのだ。何も自慢するほどのものでもない。批評的視点とか言っているが、本当は傲慢的視点であるかもしれない。ここが問題だ。なぜなら自分が傲慢であることがわからないことが一番の致命的なことなのだ。ルイスは他人の傲慢に嫌悪した分だけ自分のなかに傲慢があるというようなことを言っている。そうか、他人の傲慢に嫌悪したことが自分のなかに傲慢がある証拠なのだ。他人が自分に何か、自慢した時、見せびらかした時、自分のなかに傲慢がないならば、一切嫌悪することがない。でも嫌悪の気持ちが少しでもあるならば、やはり自分のなかに傲慢がある、ということなのだろう。自分の中にある競争意識が刺激されているのである。となると、私の成長はきっと、傲慢な人間の姿を見た時、嫌悪しないこと、キリストがなさったような意味での憐れみを身に着けることだろう。傲慢の位置からの憐れみでなく・・・である。