人生、孤立に向かう因は幾らでもある。成功してヒエラルキーのトップになると孤立する。年齢を重ね友人が亡くなると孤立する。一対多の二元構造の罠に陥ると孤立する。孤独を楽しもうと人と交わりを断つともちろん孤立する。一番身近な友人、隣人とうまくい…
もしかすると人間は独話と独話の独話同士で対話の演技をしていのではないか。もしそうならば、これこそが「お笑い」である。確かに「お笑い」で面白いのは、独話と独話で対話の演技をしている人間の真実を明らかにしてくれているような「お笑い」である。昔…
最近、これは独話だろうか、それとも対話だろうか、と考えることが多くなりました。対話の追求の世界もあるけど、独話の追求の世界もあるんだろうなあと思うようになりました。突き詰めれば、本当の対話は人格関係的方向に行くが、本当の独話は非人格的方向…
クリスマスは私たちの神像を打ち消すためにあるのではないか。当時、誰一人として完璧な神像でキリストを迎えた人はいなかった。マリヤもシメオンもアンナもみんな、自分たちの神像を打ち消されざるを得ない経験をした上でキリストに出会ったはずである。21…
中心があって、中心から周辺に向けての距離感に関心を持とう。中心があり周辺があるというイメージに集中したい。では中心に何があるのか。中心には存在があるが、同時に関係がある。関係があるということは対話があるということである。対話があるというこ…
牧師は周辺的事項については、それぞれ異なる神学を反映させていると思う。それぞれ確信を頂いているからだ。しかし中心的事項に関しては保守的な同じ結果を目指していると思う。保守的な同じ結果を目指さねばならない。ただ別の方法論で保守的な同じ結果を…
TCCの説教学の授業で、流暢に話す説教が徹底的に批判された。私は注解書を読むような説教だったが、なぜか良しとしてくださった。この経験が私の説教に対する心の拠り所となっている。10年間は完全原稿、下を向いて説教しても良い、仕方がない、教会の寛…
今週の説教でも、この世と教会は違う、価値観が違う、というふうな説教になった。ただ合理的に二元論的に区分け仕切れるものではないことはわかっている。ただ世の価値観が教会に入ってきて、それはそれで良しとするような空気になったとすると、もう教会は…
宗教改革においては 1、留まる是はカトリック 2、出て行く是は再洗礼派 3、追い出される是はルター(プロテスタント) どの道にも嵐あり、冒険あり、である。 1、やはり留まる是は、包括主義が生命かな? 2、やはり出て行く是は自発主義が生命かな? 3、やはり…
1、神さまは個人的関係で繋がろうとしてくださっています。 2、しかし人は個人的関係アプローチの現象しか見えません。 3、ですから人はまず現象からそのアプローチに気づきます。 4、現象の中心に受肉と受難と復活と聖霊と再臨があります。
父が召され、母がホームに入り、父の書斎に入ることもあり、そうすると、クリスチャン一代目の父の叫びが響いてくるようになりました。父が召された時、葬儀で読んだ80歳の父が書いた手紙から叫びを聞き、素直に叫びを叫びとして受け止めることができるよう…
「悔い改める」というキリスト教用語がある。「悔い改める」ことが大切だというが、見落としてはならないのが、何のために悔い改めるのか、である。「悔い改める」のは「神と繋がるため」である。そればかりか、聖書のなかには人と人が繋がるためのキリスト…
ブーバーは「現実の世界とは神との関係の世界である」と言う。そう聞くと、私たちはすぐにこの世と完全分離した神秘主義の世界を思い描いてしまう。しかしブーバーの世界は、何もこの世と完全分離した神秘主義の世界ではないようだ。「永遠の汝」である神と…
「アブラハムの神」に理念はなかった。啓示の神がアブラハムに啓示された時に出会った頃、全く理念はなかった。また「パウロの神」にも理念はなかった。啓示の神がパウロに啓示された時に出会った時点では理念はなかった。しかしパウロがキリストと共に生き…
仮に、ある人が、「我と其れ」の世界にどっぷりつかって、非人格的世界で非人格的関係だけで生きるような人になっていたとしても、それでも「我と汝」を喜ばない人は、一人もいない。「我と汝」を喜ばない人は一人もいない、と信じ抜いて生きよう。なぜなら…
「一匹」が強調されている。また「ちいさい」も強調されている。「一匹」は、「我と汝」(ブーバーの言う根源語)の関係を表し、「九十九匹」は、「我とそれ」(ブーバーの言う根源語)の関係を表す。話の聞き手はみんな、この例え話に納得することを前提に…
「ラッキー」と思わず言った。ああこの言葉の根源は「すべては偶然だ」という考えから来ているのだろう。「しょうないなあ(仕方がないなあ)」と思わず言った。ああこの言葉の根源は「運命論、宿命論」から来ているのだろう。「信じればできる」と思わず言…
客観か主観か、を分けるようになった。 公同か自主か、を分けるようになった。 関係か存在か、を分けるようになった。 実存か歴史か、を分けるようになった。 でも究極的に重要なのは、やはり 人格関係か非人格関係かだ。 ブーバーの「我と汝」か「我とそれ…
私も60歳になった。今からこの認識に立っておこう。音には自信があった。でも自分の耳が違ってきているかもしれない。目には自信があった。でも自分の目が違ってきているかもしれない。舌には自信があった。でも自分の舌が違ってきているかもしれない。鼻に…
人は他人の傲慢を見ぬけると自慢する。でも人というものは、他人の傲慢はよく評価でき、分析できるものなのだ。何も自慢するほどのものでもない。批評的視点とか言っているが、本当は傲慢的視点であるかもしれない。ここが問題だ。なぜなら自分が傲慢である…
論理→聖霊→対話→論理→聖霊→対話→論理→聖霊→対話→ 合理→不合理→人格関係→合理→不合理→人格関係→ 存在論→別の存在論→関係論→存在論→別の存在論→関係論→ 神の御言葉→神の息→神の形→神の御言葉→神の息→神の形→
今まで、通し番号で書いてきましたが、「運命論」で検索したら、通し番号1が「運命論・宿命論は冷たくて寂しいよね、と言って宣教しよう!」2016-10-12、でした。実際、1990年代に日記に書いていたものをパソコンにあげたのが2016年10月12日、でした。今日も…
社会に近づくベクトルだけに従うと、自分は意図しなくても、右の立場とか左の立場とか画一的な政治的な考え方に翻弄されてしまうことになる。反対に、個人に近づくベクトルだけに従うと、自分の信仰を押し殺すような、二元化が生じてしまう。まずはこの間で…
「私は神を信じる」だけでは神を信じたことにならない。「私は神を信じる」のならば、「私はあなたを信じます」と神さまに祈ることだ。なぜなら救い主イエスさまは弟子たちに「私の名前で祈ってごらん」と言ってくださったからだ。ですから、イエスさまの名…
30年ほど前のことである。一人の求道者が初めてお祈りにチャレンジしたのだが、途中で「独り言を言っているみたい」笑ってしまわれた。独り言でない世界がすぐ近くに近づいてきているのに・・・・
距離の持ち方が一定じゃないのは当然。関係に動きがあるのは当然。教会は人格関係で生きているのですから。近づくことの冒険を忘れてはならない。冒険で疲れてしまっても決して離れてはならない。それが教会・・。キリストに近づくこと、キリスト者に近づく…