「福音の再発見」を購入しました2

 まだ読めていません。読む前に、私がアナバプティストであるってどうゆうことか、少し考えてみました。アナバプティストであるということは500年前の宗教改革で100%答えが出た、と500年前から思っていない人たち、ということではないかと思っています。メノシモンズはルターの影響を受けて回心を経験したのですが、それでも足りないものを感じて、ついにアナバプティズムの影響を受けて、その世界に飛び込んでいきました。

 ですから、500年前から「宗教改革」から生じた空洞感を引っさげて、別の共同体を作ろうとしたのがアナバプティストたちだったのだと思います。実際はその空洞感は迫害を背景に維持できたものの、最後には、律法主義、形式主義、に落ち着いていったようです。ただアナバプティズムはある程度正統派信仰を持とうとしつつも、正統派信仰者から迫害されるなかで、共同体意識を高めつつ、でも空洞感を持ち続けたある時期の人たちだったと思われます。

 アナバプティズムについて、興味深いことがあります。それはアナバプティズムが根絶された地域、例えば、モラビアなどで、そのアナバプティズムが苦しんだあの空洞感を埋めようとするエネルギーが復活して、同地域で敬虔主義が生まれたようなのです。ある学者が、アナバプティズムが拡大し根絶された地域に敬虔主義が出て来たことを興味深く伝えてくれています。もしそうだとするならば、宗教改革アナバプティズム的な空洞感の一つの実現として、別の形で、全然異なる運動として、敬虔主義が起こってきたとも理解できるのです。

 しかし、アナバプティズムと敬虔主義は全然異なるものでした。ただ、似通っている面もありました。例えば、正統主義の中心に入ることなく、周辺で生きたという意味では両者ともが似通っていました。またアナバプティズムの人たちも「兄弟姉妹」と呼び合い、敬虔主義の人たちも「兄弟姉妹」と呼び合ったことは、これも非常に似ていたのです。また両者とも、分離を経験したらどうなるか、ということを以前から知っている人たちというふうにも言えましょう。また分離主義の悪い側面が強調されることが多いわけですが、分離主義の良い側面を再発見しようとしたら人たちと言うふうに言えましょう。

 私がアナバプティストであるということはどうゆうことなのでしょうか。正統主義に対して、アンチで生きることなのでしょうか。また正統主義の欠けたるところを補充するということなのでしょうか。 また第三の道を伝えることなのでしょうか。しかし、今までのメノナイトブレザレンの流れを顧みるときに、メノナイトブレザレンが、アナバプティズムの流れにあったにもかかわらず、敬虔主義の影響を受けてメノナイトブレザレンという群ができ、そのときのリバイバリズムから出てくる無秩序化を抑制するために、ドイツバプテストからディスペンセーション神学を学び、客観化をはかったことがわかります。そのようなわけで、アナバプティズムはいつも他派の影響を受けて、例えば、カルビニズムの構造主義の影響も受けたことにより、なんとか今日まで生き続けたことがわかるのです。ですから、私は自分の立場を明確にしつつも、カルビニズムの力を借りないと生きていけないと思っています。またアングリカンチャーチの包括主義からも多くを学ぶこともできると思っています。また歴史的に公同を否定する教派でありましたが、公同についても尊重することは忘れてはならないと思っています。