二・三人の神学(按手礼論文4)

発行日2001年4月22日(今回、プログ上で改訂)

第二章 聖書時代の「ギリシャの平和」?

 もう一つはギリシャ的な平和である。このギリシャ的な平和もまた消去法で消去したい平和である。ギリシャ的な「平和」ἐρηνη(エイレーネ)は主として、「状態」「状況」を表わす言葉で、特に、「休息とか「静穏」とかの状態を表わした。ストア学派の理解によると、平和は主として「心理的調和」「霊的調和」「心のなかの秩序」を表わしていた。3)しかし、このような「ギリシャの平和」は聖書の平和の意味を十分表現していない。

 確かにパウロは「エイレーネ」を用いることによって、聖書の平和概念の心理的調和の側面、霊的調和の側面を豊かに表現してはいる。例えば「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。」(コロサイ3章15節)の平和は、心のなかの調和の側面が強く表現されている。

 しかし、聖書は、このようなギリシャ的な側面からの平和理解だけを言っているのであろうか。一般ギリシャ世界で用いられる「エイレーネ」が心理的・個人的調和の側面が強調されていたとしても、聖書で「エイレーネ」を用いるとき、旧約聖書の時代からの意味が流れているはずである(第三章で触れる)。

 もし、一般のギリシャ世界で用いられてきたような意味での平和理解だけであるならば、日本人が今日まで用いてきた「平安」「和らぎ」「落ち着き」という言葉とも混同してしまうであろう。我々の信ずる平和は日本人的な「和らぎ」以上のものである。個人の中に矮小化されてはならないのである。

 ただ、一方で、聖書の平和の一面である「ギリシャの平和」の「心理的調和」「霊的調和」「心の秩序」から出発して、平和の全体像を追求することは重要なことだと思う。私自身も「平安のうちに召天したい」という願いが自分のうちにある限り、今後、一生涯かけて、この「平安論」4)を追求し続けるであろうし、何としても「平安論の拡大」の延長線上に本当の平和の全体像を見たいのである。

 「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なせなら恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。」(第一ヨハネ4章18〜19節)武庫川キリスト教会の標語

3)ジョン・ドライヴァー 教会 イエスの共同体 棚瀬多喜雄訳(すぐ書房,1982年)P.96。
4)近藤勝彦 信徒のための神学入門(教文館 1994年)PP39-59。第二講の「平安(シャローム)の神学の部分で、著者が「平安論」と言う言葉を用いて、次のように述べられている。「一般に平和を語る者は、神学について考えない。神について語る神学は、平和とか平安とかいう事柄について、語ることを忘れている。それで、わたしは、この神学の学びの中で、言ってみれば、神学的概念として『平安』という概念を回復しなければならないと思うのです。」