人格・人格関係・二・三人の神学

 HPをいろいろ見ていましても、「人格」とか「人格関係」という用語の使用回数が少ないように思います。使用されている場合でも、どちらかというと心理学な用語として、例えば「人格障害」などで使用されている事例が多いと思います。人格が壊れた状況を目の当たりにして対応するなかで、「人格」という用語が浮き彫りになってきているようです。確かに今日まで、「人格」を客観的に定義することは困難だったと思われます。私はマルティン・ブーバーの「我と汝」「我とそれ」を二つに分けて、「我と汝」の関係を人格関係、「我とそれ」の関係を非人格関係と区別することで目からうろこという体験をしたことがあります。しかし一方で、客観的な学問の世界では「我と汝」の世界は、主観的な世界、実存的世界、個人的な世界、ある場合は神秘主義的な世界である、ということで客観的な学問としての発展性はあまりなかったように確認しています。日本語での「人格」と「人格関係」も同様です。わかっているようでわかっていない用語なのです。また実際に、日常生活のなかで、「人格」「人格関係」なる用語は全然使いこなされていません。私の場合は、まだ説教のなかで「人格」と「人格関係」は多用しているほうだと思います。神との関係を表わすのに、「人格関係」という言葉が最もふさわしいと信じているからです。そのようななかで、日本の神学者の大家であられる大木英夫氏はこの用語を頻繁に使用してくださった方でした。そんなこともあって、今回、大木英夫氏の書かれた「人格と人権 上」という著書を手に取り、吸い込まれるようにして読みました。読みながら、「マルティン・ブーバー」の影響を受けたエミール・ブルンナーの弟子としての大木英夫氏という流れがあるんだなあと思いました。エミールプルンナーは世界的な神学者でしたが、日本に来られて日本の神学界に影響を与えたのだなあと思いました。しかし大木英夫氏はブルンナーの弟子ではありましたが、ブルンナーの道を歩まなかったようです。なぜなら、ブルンナーの「出会いの神学」、マルティン・ブーバーの「我と汝」「我とそれ」だけでは個人の実存に埋没してしまうと理解したようです。また戦後の様々な複雑な社会状況を見るに至って、これでは日本社会に浸透できないと理解したようです。それで、人格理解に客観性が出て来ないものか、客観的な人格論を構築し、その上で客観的な人権論を構築しようとなさったようです。そのようななかで、もう一つのあり方、「我と彼」という人権の価値を示す、あり方を提唱されたようです。正直、私は、「我と汝」「我とそれ」という、「あれかこれか」の捉え方で感動したものとして、もう一つの中庸の道として「我と彼」が出て来ても、どう捉えたら良いのか、今もわからずじまいです。私はむしろ、エミールブルンナーの実存主義に埋没しないことは当然のこと、マルティンブーバーの「我と汝」「我とそれ」に感動しつつ、三位一体論との兼ね合いのなかで、客観性を追い求めていきたいと思っています。それが二三人の神学です。(ブログ 二三人の神学の部屋)