「メノナイトから見た聖書解釈〜「救済」について〜」トーマス・ヨーダー・ニューフェルド博士(新約学:コンラートグレーベル大学名誉教授)第一講義

EBS夏期公開セミナー
「メノナイトから見た聖書解釈 〜「救済」について〜」

2013年7月3日(水)
講師: トーマス・ヨーダー・ニューフェルド博士(新約学:コンラートグレーベル大学名誉教授)

以下は、上記のセミナーの講義(2回)を、カナダに帰国されたニューフェルド先生がまとめた内容を日本語に翻訳した原稿です。


第1講義  イエスと救済
 私は、メノナイトの視点から救済について解説するように依頼を受けました。ご承知の通り、メノナイト共同体は非常に多様化しています。その中でメノナイトが共通して持っているのは、実際的な事柄の強調です。それは、聴くことや信じることだけでなく、「行う」ことも含んでいます。これは同時に、私たちが聖書の救済についてどのように聖書を読めばよいのか、その事柄に関わります。
 
このような視点で聖書を解釈しているのは、私たちだけではありません。メノナイトにとって大切と思えるこの強調点は、もっと一般的な聖書解釈にも反映されています。これは重要なことであると思います。なぜならば、再洗礼派の原動力は、「再洗礼主義」に対してではなく、聖書に対して真実であろうとした姿勢にあるからです。聖書をともに読んでいきたいと思います。ただしこれは、私たちだけの「少数派」としての読み方ではなく、より大きなキリストの体において主張されている事柄と一致する読み方なのです。
 
 メノナイトと聖書に関する一般的なコメントから始めます。メノナイトは(特に学問的レベルでは)、聖書の読み方について多くの影響を受けてきました。

 第一に、聖書各書(旧約聖書においても新約聖書においても)の歴史的特徴について学び、どのようにして聖書が成立したのかを理解しようとしてきました。私たちはこのような聖書の歴史的特徴を聖書解釈や解釈学を通して学びつつ、聖書の社会的・文化的状況についても学ぶようになってきました。そして、そのような状況が歴史の中の特定の場所・時代で人間の生活にどのように影響を与えるか、そのようなことも学んできています。私の意見としては、これは「堕落」の結果ではなく、神の創造の業の一つであるということです。“言葉”(the Word)が肉となったこと、つまり受肉について考えてみましょう(ヨハネ1章)。その「肉」は常にどの場所でも、どの時代でもあり得ます。そこで、私たちはイエス自身の生きた世界、つまり1世紀のパレスチナローマ帝国の占領下、ユダヤ教諸派が乱立している状況)に注意を払いたいと思います。また、パウロ自身の生きた世界、つまりヘレニズム的でローマの国際主義的な世界に目を留めたいと思います。このような理解は、私たちの聖書の読み方にとって不可欠な要素です。
 
 第二に、私たちは聖書読者つまり聖書解釈者としての自分を知らなければなりません。私たちも、自分自身の歴史的・社会的・文化的状況に置かれているのです。私の「置かれた」状況を説明してみましょう。私はMBの背景を持つカナダ人の大学教授であり、ヨーロッパに派遣された宣教師の家庭で育ち、長くメノナイト教会の一員であり、ヨーロッパと北米のメノナイトをルーツに持つ女性と結婚したことなどです。このような状況は、私の聖書の読み方や解釈に影響を与えます。それがどの程度に影響しているのか断定することはできませんが、私は私が当然と考えている何かであることは間違いありません。みなさまはこの日本で、みなさま自身の状況に「置かれて」います。しかも、みなさまは、メノナイト・ブレザレンの宣教師の子どもです。MBの宣教師たちは、他の宣教師たちとは違う「メガネ」をみなさまに与えました。そのメガネによって、私たちには見える物が決まってきます。しかし、そのメガネによって、他の人々が見えない物を見ることができます。だから、他の人々と一緒に聖書を読むことは良いことなのです。特に、私たちとは違った人々と聖書を読むことは素晴らしいことです。歴史から分かることは、誰もすべてを見ることなどできないということです。

 これは、救済についてメノナイトの視点から聖書を読むという課題の背景となります。ここで二つの認識について確認しておきましょう。メノナイト派自身はその歴史や神学的・倫理的観点から聖書を解釈しているという認識です。同時に、それは完全ではなく、そこには限界があるという認識です。私たちは聖書解釈に関して広い立場を知らなければなりません。そうでなければ、これまで見てきたものしか見えないことになりますし、当然であると考えてきたことを補強する聖書の読み方しかできなくなります。私たちは「再洗礼派的な聖書解釈論」とか「メノナイトの聖書の読み方」とか言いますが、同時にそのようなことに疑ってかかる必要があります。

 一つの例を挙げてみましょう。ジョン・ハワードヨーダーの「言葉に聴く」という論文集があります。これはヨーダーが死ぬ直前に出版されました。ヨーダーは、聖書をはじめに読むときに解釈学や聖書解釈の方法論を打ち立てることに疑義を持っていました。出版社はこの本の題を「どのように聖書を解釈し、読むか」とするように提案してきましたが、ヨーダーは「言葉に聴く」にしたいと主張したのです。ヨーダーの主張に従えば、私たちは“言葉”(それは常に聖書以上のものであり、常に神の声であり、常にイエスにおいて受肉している“言葉”なのです)の所に来るべきなのです。それは、知らないことを聴くためであり、目が開かれるためであり、導かれるためであり、評価を受けるためなのです。もちろん、適切な方法論と解釈は必要とされています。もちろん、いわば私たちの歴史・伝統・「読み方」というメガネを私たちはかけています。ですが、私の意見としては、ヨーダーの言いたかったことは、神が最初の言葉であるべきだ、ということです。私たちが聖書に対して何かを言う前に、聖書が私たちに呼びかけてくるのです。

 長い導入部でした。その意図は、救済について聖書が教えていると私が信じている事柄を「私の」視点からこれから語るのですが、そのことをみなさまに知らせておきたかったからです。それは、救済についてメノナイトがどのように考えるか、そのような課題への「メノナイト」的な返答の仕方です。しかし、これから述べることは多くの教会が聖書解の結論として認めてきた事柄の一つでもあり、私はそのような認識に基づいて語ります。それもメノナイト的なやり方でありましょう。もう一つ説明を加えましょう。みなさまはメノナイト・ブレザレンです。それは、(ブレザレンのという名のない)他のメノナイトメノナイトと同様にメノナイトだということです。私自身のメノナイト的な視点を説明してみたいと考えますが、メノナイトの仲間の試金石として次の問いを考えてみて下さい。

 
聖書は救済について何と言っていますか?この問いに対して、二つの事柄を考えてみて下さい。
1.この質問に答えるために、メノナイトとして私たちはどの程度、聖書を読むべきでしょうか?
2.私たちはどのような状況から、救済に関する問いを発しているでしょうか?
 

 最初の問いに対しては、私たちは聖書すべてを読む、が答えとなるでしょう。私たちは旧約聖書を読みます。それは、新約聖書の著者たちが旧約聖書を持っていたからです。聖書を読む際にはキリストを中心とするのですが、旧約聖書を読んで初めてキリストが分かるのです。これは強調すべき点です。なぜなら、救済について考えるときに、新約聖書から始める傾向が私たちにはあるからです。イエスは私たちの信仰の中心であり、特に救済理解の中心です。しかし、私たちが好む聖書箇所だけを取り上げない方が良いと言えます。それは、私たちは自分が信じていることにすでに適合しているからです。ですが、私たちが信じていることに合わない聖書箇所からチャレンジを受けるべきでしょう。この姿勢も、救済理解には適切なことです。イエスパウロ、ペテロ、ヤコブ、みなが、私たちが旧約と呼んでいる聖書を読み、救済を理解しました。もちろん、救済はイエスの出来事(生涯、死、復活)に関連付けられました。しかし、これは、神のイスラエルとの関わりという長い歴史と創造の視点から理解され、律法・預言者・諸書の証しによって、すなわち旧約全体を読むことによって理解されたのです。私たちとってこのチャレンジは大きくとも、旧約聖書を考慮外に置くことはできないのです。

 二つ目の問いへの答えは、私たちは私たち自身が置かれた状況を真剣に捉えるべきだということです。なぜならば、私たちは聖書時代の状況を真面目に考えねばならないからです。“言葉”は私たちが住むこの現実に対して常に語られるのであり、そのことを私たちは知っています。2013年に生きる日本のMBとしてのみなさまが、救済ということが自分にとってなぜ重要であるのか、その理由を問うことは大切です。この問いの重要性は何でしょうか?


聖書観察
 今日、「救済」「救う」「救済者」といった用語は、広く宗教的な意味を持っています。しかし、聖書の時代はそうではありませんでした。「救済者」によって災難、自然災害、抑圧、戦争などから「救われる」という意味でした。「救済」には豊富で多様な意味があり、それは聖書時代に生きたユダヤ人にとっても、他のどのような人々にとってもそうだったのです。救済は、聖書著者と原読者にとって広い視野を含んでいたました。この視野を際立たせる特徴について考えてみましょう。

 「救済する」を意味する用語は、「解放する」「自由にする」あるいは「和解する」とさえ翻訳できます。救済が抑圧からの自由を意味するとき(その規模にかかわらず)、救済は「正義」をもたらすものとなります。救済が闘争、暴力、戦争からの自由を意味するとき、救済は「平和」となります。救済が罪あるいは抑圧者による束縛からの自由を意味するとき、「自由」となります。私たちが神のとの和解について語るとき、それを「神との平和」と呼びます。

旧約聖書
 旧約聖書において、救済はあらゆる種類の脅威・苦難・束縛からの自由を意味しています。神の民にとって最も基本となるのは、エジプトでの奴隷状態からの解放です。聖書の最も古い「救済の詩」であるミリアムとモーセの詩(出エジプト15章)には、神が戦士のような解放者として賛美されています。民を奴隷としていたファラオのエジプト軍を神が倒したからです。メノナイトとしては神が戦士であるという描写には納得が難しいでしょうが、この物語には聖書における救済理解の基本的な考えが含まれています。この物語は神を、力のない人々が被る苦しみを知る存在として語り、自分たちを気に掛けてくれる人々さえもいない人々に目を留める存在として紹介しています。

 救済者としての神について第二の重要な記述は、捕囚からの解放です。この主題は、特にイザヤ書の第二部(40-55章)にとって重要です。新約聖書の著者たちは、この第二部からイエスを救済者として理解するための聖書的根拠を引き出しました。イエスの時代のユダヤ教において、「捕囚の終了」は重大なテーマでしたし、新約聖書にもその影響が残されています(例えば、第1ペテロ)。

 敵からの救済について、しばしば詩編に記されています。その主題は、個人としての敵や民族的敵から個人的な罪・神との関係の破綻まで含み、災難や病気からの解放にまで至ります。詩編ユダヤ教徒の祈祷書であり讃美歌でありましたが、イエスやその弟子たちにとってもそうでした。新約聖書には救済者としての神理解が残されているのです。

ユダヤ教
 新約聖書時代に移ってみましょう。この解放という考え方は明確です。ユダヤ人たちは、憎むべきローマ人からの解放を熱望していました。それはちょうど、バビロン、エジプト、シリアからの解放を獲得した時代と同じです。

 「黙示的」という言葉があります。これは、イエスの時代のユダヤ教の中で最も急進的な運動を意味します。黙示的見方によれば、奴隷状態や抑圧状態は目に見える状況というだけでなく、「霊的」な事柄であり、悪魔的な力・支配・権力の状況とも関わります。問題の一部はローマによる抑圧でありましたが、直面した問題はそれ以上でした。問題の一部は飢えでありましたが、解決すべき問題はそれ以上でした。問題の一部は個人的な罪を含んでいましたが、現実の問題はそれ以上でした。実際、善の力と悪の力と間の闘争、神とサタンとの間の闘争、天使と悪霊との間の闘争、このような戦いが宇宙レベルで起きると考えられていました。救済は、神の民が災難や抑圧からの解放を意味しただけでなく、悪魔的な力を含んだ悪の力からの解放を意味しました。それは、いのちにとって最終的な敵である死の終わりをもたらします。復活は基本的には、解放の出来事なのです。黙示的視点によれば、この悪である時代の終わりが期待されます。この期待は、大崩壊とともにこの世界が過ぎ去るという劇的な表現で描かれます。「偉大な日」が到来するとき、死者はよみがえり、裁かれます。この世界は造り変えられ、新しい天と新しい地が来るのです。

 多くの黙示文学には神話的イメージが見られ、その時間は区切られ時代や期間として表現されています。その当時の読者は黙示文学を読むとき、自分たち自身の時代について記されていると読んだことでしょう。悪魔とその手下は堕ちて敗れ、死も同じ運命をたどります。憎むべきローマも敗れます(例えば、死海文書の有名な「戦争の巻物」を考えてみると良いでしょう。このような捉え方は新約聖書にも反映されています。例えば、第1テサロニケ5:11, 第1コリント15章、ヨハネ黙示録)。
 このような表現を解釈すること困難なことです。聖書にもこのような表現が登場します。これは比喩的表現でしょうか?私たちが知っているこの世界の経験を意図しているのでしょうか?この世界(被造物、「私たちが知っている」この世界)の終焉について語っているのでしょうか?


エスと救済
 イエスは神の支配の到来を宣言しました。それは、現実に起きる大変な出来事(世界の終焉)を意味したのでしょうか?あるいは、貧困と災難の終わりを意味したのでしょうか?人々は自分たちのそれぞれの視点からイエスの言葉を聴いていたのでしょうか? ある人々は、貧困や災難からの自由を叫んだのでしょうか? ある人々は、ローマ占領や民族的屈辱からの解放を叫んだのでしょうか? 他の人々は、霊的・悪魔的抑圧からの自由を叫んだのでしょうか? 人々の心には、これらの事柄が混じり合っていたのでしょうか? イエス自身がその言動において宣言したことを、全人的に理解したのでしょうか?

 イエス神の国宣言をどのように福音書は語っているのか見て下さい。神の国は、不公正、飢餓、災難、肉体的な抑圧、霊的な抑圧、暴力という現実に神が介入することとして語られています(マタイ福音書5-7章「山上の説教」、マタイ11章「バプテスマのヨハネの混乱に対するイエスの答え」、ルカ4章「イエスの最初の説教」)。言い換えると、イエスの言葉と行動は、救済に関する聖書理解(旧約聖書理解)によって明確になります。福音書記者たちも、そのようにイエスを理解するように私たちに求めています。イエスユダヤ名であるヨシュア(救済者)はモーセの時代のヨシュアと同じ名前であり、そこでエジプトからの解放という出来事と結び付くのです。出エジプト記15章に記されているミリアムとモーセの詩には救済者としての神の勝利が謳われています。それと同様にルカ1:46-55で、イエスの母マリヤ(ユダヤ名ミリアム)は神の「戦いの詩」を謳い、低くされている者、飢えている者、踏みつけにされている者の救済者・解放者として神を描いています(ルカ2:29-32には、救済についてシメオンが謳った詩も見てください)。

 イエスは譬えによって神の支配の到来を語りました。譬えとして語られた神の支配は驚くべき形で現われ、ときには誰にも気づかれずに現れます。そして、現実に物事を変えていくのです。神の国は夜にやって来る花婿のように突然に現われます。種がまかれ、驚くほどに成長し、その木に鳥が巣を作るほどになります。金貨は失われますが、見つかります。家出した息子は、そのひどい素行にもかかわらず、家に迎えられます。通常は招待されない人々が、婚礼の宴会に招かれます。「小羊」は、神との関係が必要を求めている人々に食物や衣服を与えることによって成り立ていることを知らないままそのような人々に必要をもたらし、その報いとして永遠のいのちを約束されました。敵は隣人のようにふるまいます(サマリヤ人の譬え)。路上生活者はアブラハムの懐にいます(ラザロと金持ちの譬え)。イエスは自らの言葉と行動によって、社会の暴力や抑圧を暴露しました。悔い改める人々、自らが赦す人々に対して赦しを約束しました。特に、律法に記されたヨベルの年(レビ記25章)の解放の出来事を実践するように人々を招いたのです。イエスは神を「アバ(父)」と呼びましたが、同様に神を「アバ」と呼ぶようになれるようにすべての人々を招きました。つまり、神の息子や娘になるように人々を招いたのです。イエスは思いやり、愛、正義などを示しましたが、それはイエスが神の支配、神の正義と呼んだ事柄を特徴づけるものです。

 これらはすべて救済の表現であり、イスラエルの聖書に深く根ざし、知られていた事柄です。飢えた者、抑圧された者、病いの者への希望であり、罪人への希望なのです。聖書の観点からすれば、つまり旧約聖書新約聖書旧約聖書の成就であります)から見ると、物質と霊との境界や地上的な事柄と天的な事柄との境界に明確な線を引くことはできません。なぜならば、救済者は創造者であるからです。

 私の好きな聖書の物語の一つは、ルカ19章のイエスとザアカイとの出会いです。これは、様々な意味で救済の物語と言えます。イエスが罪人に接した物語であり、自らがザアカイの人生に関わろうとした物語です。人生が変えられる物語です。もしイエスが自分の家に来たら、すべてが変わるとザアカイはすぐに悟りました。それは、神との関係が変わるだけでなく、他の人々との関係も変わることを意味しました。収税人は情け深い者に変わり、財産の半分を貧しい人々に与え、盗んだ者は四倍にして返すとことにしたのです。つまり、これは社会正義としての救済の物語なのです。「救いがこの家に来ました」とイエスが言ったときの意味は、解放がこの人物の人生に起き、この人物の抑圧によって苦しめられていた人々に解放が起きたということです。みなさまは、エリコの町中に喜びと驚きが起きた様を想像できますか? エリコの貧者たちは、神の国がこの世界に到来したと確信したことでしょう。

 救済は、まさに社会的次元を有しています。それはお金が返還されることばかりでなく、この憎まれている男性を仲間に加えてしまうほどに神の共同体が拡大することでもあるのです。イエスはこの人物をも「アブラハムの子」と呼びました。この物語の最後で、イエスは「人の子は失われた者を探して救うために来ました」と言っています。そこでの「探す」「救う」は、ザアカイの神との「霊的」関係だけを意味しているのではありません。言い換えると、「霊的」という言葉をルカ14:8でイエスが使う「霊」の意味で使うとするならば、ザアカイがお金を与え人々がその返還を受けること、あるいは契約の共同体によそ者が招き入れられること、それ自体が「霊的」ということになるのです。

 これと同じ救済理解は、マタイ福音書の山上の説教にも見られます。それは、苦しめられている人々に対して与えられた、マタイが「天の国」と呼ぶ事柄の約束です。また、神の正義と公正とを求める人々に与えられた、天の「父」の意思なのです。山上の説教は、神の国に生きる人々の一種のマニュアルと言えるでしょう。この時代が新たにされるときにあるべき場所にいたいならば、以下のように生きれば良いことになります。真実を語る。隣人とその身体を尊重する。頬を向ける。求められれば与える。敵を愛する。外部に知らせずに憐れみの業を行う。経済生活について明日のことを心配しない。赦しを求める前に、あなたが赦す。裁かない。まさに、イエスから学んだことを実践することなのです。救済は単に信じるという賜物ではありません。神の意思に沿って生きるための信頼の賜物なのです。

 特に過去50年程度、メノナイト派はこのような福音理解の視点を強調してきました。このような福音理解を通常は「救済」とは呼ばず、弟子化の課題として扱われてきたと思います。しかし、福音書記者たちは、イエスの説教と教えについてまたメシアとしてのイエスのそのような行動ついて著しています。福音書記者たちはよく考え、イエスの言動を神の国がもたらす全人的救済として描いているのです。福音書に記されたイエス像は、パレスチナでイエスが宣教を行ってから50年経過してから記されたものであり、パウロ書簡から記されてからも時間が経過しています。これを覚えておくことは重要です。イエスを信じている人々は救済者としてのイエスを忘れないでいました。そのことに新約聖書の著者たちは注意を払っているのです。

 しかし、福音書が救済について述べていることは他にもあります。正典福音書はすべて、救済の中心としてイエスの死と復活を強調しています。ヨハネ3:16は福音書記者の福音理解を簡単にまとめたものであると言われます。神が愛するこの世界のためにイエス・キリストを与えました、ここに神の愛を見ることができます。ですが、この「与える」は、イエスの死だけに関連しているわけではありません。イエスの生涯全部、行動、教え、人間関係に関連付けられます。それらはすべて、救済という良いニュースの一つひとつです。イエスに目を留めていく中で、救済について2つの視点を持つことができます。救済は、具体的で実践的です。飢えている者に食物をもたらし、病人を癒し、抑圧されている者に自由を与えるのです。また、救済はより適用範囲の広い意味を持ちます。十字架の上でいのちをささげ、復活においていのちがよみがえりを通して、この世界は愛である創造者との和解を経験します。イエスの洗礼のとき、バプテスマのヨハネが「世の罪を取り除く神の小羊」とイエスを呼びましたが、イエスはまさにそのような者でした。各福音書記者がそれぞれの表現で述べている通り、「罪を取り除く」は十字架の上でいのちを捨てることを意味しています。しかし、ザアカイが経験したように、イエスが探し見つけ出した人々に起きた出来事も意味しています。それは、イエスが人々を病から癒したことかも知れません。霊的抑圧からの解放から知れません。罪を赦すことかも知れません。食事を共にすることかも知れません。貧しい人々に自分の富を分け与え、イエスに従うことかも知れません。富める若い役人が経験したように、ときに救済は針の穴をラクダが通るよりも難しいことです。しかし、イエスが弟子たちに指摘したように、「神には、すべてのことが可能です」(マルコ10:27)。

 私の意見として、イエスが語り行った救済を全人的な救済として捉えることは、再洗礼派の神学、メノナイトの神学に見られる評価できる側面です。しかし、それは、聖書神学の結果(旧約聖書新約聖書との一貫性の学び)として評価できるからなのです。聖書研究が、「良いもの」をもたらしてくれています。