1258、名前があるのは、神に祈るために、神に呼ばれるために、呼称として名前があるのだ。

神が私の名前を呼んでくれる、というのは違和感がある。なぜなら私の名前は親がつけた名前だからである。神がつけた名前ではない。同じように、私が神の名前を呼ぶというのは違和感がある。だから人間がつけたいろいろな名前で呼ばせてもらう。いろいろな名前が書かれてあって助かるのは詩篇だ。もちろん、詩篇だけでは満足できない。どうしても「イエスさま」と呼びたいから。祈りの相手は父なる神なのに、「イエスさま」と呼びたいのはなぜか。人間になられたイエスさまは「ザアカイ」と呼んでくれた。「サウロ、サウロ」と呼んでくれた。「マリヤ」「ラボニ」と呼び合った。