1270、今週も、福音書の「わたし」という言い方で説教しました。

 今週の説教でも、私は、福音書の「わたし」とか、ひらがなの「わたし」とか、そんな言い方をしていました。新改訳聖書では人間が「私」と言った時には漢字の「私」になっていますが、神さまが「わたし」と言った時にはひらがなの「わたし」になっています。ですから、福音書ではイエスキリストが「わたし」と言われた時は「わたし」となっています。私は牧師をしていますが、このひらがなの「わたし」を伝えることが私の使命だと思っています。このひらがなの「わたし」は他のものに入れ替えることができません。私たちは漢字の「私」であっても、決して入れ替えできませんが、このひらがなの「わたし」も、絶対に入れ替えできないものです。

 

1269、人間が名付けた名前、親が名付けた名前を神さまが呼んでくださるなんて

 神さまが名付けた名前を神さまが呼んでくれるならわかる。そうではなく、人間が名付けた名前を神さまが呼んでくださるのだ。すごいことだ、と思った。自分の名前が好きになれないという人もいると思う。でもその名前で神さまが呼んでくださるとしたらどうだろうか。アブラハムもまだ親がつけた名前、アブラムの時代、「アブラムよ、恐れるな」と言われた。あとでアブラハムと神さまが改名されたのですが、改名する前の親がつけた名前も改名するまでしっかりと呼ばれていた。むしろ、改名する名前も親がつけた名前とそんなに変わらないような気がする。子供の時代のクイズで、旧約聖書中、入れ歯をした人物は誰ですか?   はーい、アブラハムです。胃を取った人物は誰ですか?  はーい、サラです。そんなクイズがあったなあ。

 

1268、「名前の哲学」144頁 「神がみずからの名前を持つのはわれわれのためであり、われわれが神の名前を呼べるようにするため」

名前の哲学144頁「神がみずからの名前を持つのはわれわれのためであり、われわれが神の名前を呼べるようにするため」ローゼンツヴァイク2011.107頁)
 
 最近、気づかされていることは、「名前「の軽視だ。特に学問の領域では「名前」は厄介者に見えてくる。固有の「名前」を用いることにかなり慎重である。それが客観的な学問ということであろう。しかし、ローゼンツヴァイクを読んでいると、そんな傾向に対して、違う、違う、と思ってくる。ましてや「名前」を超えて「呼称」こそが大事だ、なんていう考えを客観的な学問領域に入れるわけにはいかない。しかしわかっていても寂しい風が吹き抜ける。
 
 イエスさまの弟子たちが、イエスさまが親しい間柄であるかのように「アバ父」と神さまを呼んでいる姿にかなり違和感を覚えたことであろう。そこに不思議とか神秘とかを覚えたであろう。しかし、何も神秘でなく、親しい会話、対話というものは「呼称」から始まっていくことを主も生き方で表されたように思う。私は呼びかける時には「イエスさまぁ」と言いつつも、同じ人間が、人に説明する時は、「イエス」と呼び捨てしていることにかなりの違和感を感じてしまう。聖書も「イエス」と書かれているのだからそれでいいのだが、その「イエス」との関係性をどう思っているのか、ということばかり思ってしまうのだ。背景に子供の時から「イエスさま」と言わないといけないと思ってきたからだと思う。
 
 でも英語のJesusとは違う、何か、である。私は日本人的には、名前に関しては、生きている関係性を表していくために自然に生き生きと言い換えることもあっても良いように思う。「イエス」になったり、「イエスさま」になったり、「あなた」になったり、「あなたさま」になったり・・。私は賛美と聖書を読む時は「あなた」と発話するが、祈りのなかでは「あなた」と言えないなあ。私の主観です。ローゼンツヴァイクさん、もうちょっと教えてほしい・・
 

1267、12ステップのハイヤーパワーを「永遠の汝」にしてみた

「依存症(変な生き方)からの解放十二ステップ」

(ビットナー氏のものに少し解釈を加えた内容)

     

ステップ一     私は自分が本当に無力であることを認めます(無力)

ステップ二     永遠の汝だけが私を強くすることを信じます(信頼)

ステップ三     私は私の意志と人生のすべてを彼に委ねます(委任)

ステップ四     強さと弱さを判別する為に棚卸しを始めます(省察

ステップ五     私は回復途上の物語を彼と友人に知らせます(告白)

ステップ六     変な生き方からされるための準備をします(改善)

ステップ七     変な生き方を癒し給えと彼に謙虚に求めます(請願)

ステップ八     心の痛みを痛みとするために表面化させます(自覚)

ステップ九     できる限り人との関係の埋め合わせをします(修復)

ステップ十       棚卸しで誤りを認め、ないときは感謝します(維持)

ステップ十一    お祈りしつつ、彼との関係を深めていきます(祈り)

ステップ十二    喜びを頂いたなら、痛む人に彼を紹介します(奉仕)

                      彼=ハイヤーパワー・永遠の汝、イエスさま

          変な生き方=嗜癖、依存症、アディクション

 

1266、ウクライナ戦争で私が気づかされたこと

ウクライナ戦争で私が気づかされたこと。アメリカのCIAはロシアの侵略を知っていた、という内容をNHKが報じていた。すごい、と思った。しかし、ということは、ロシアの侵略は何らかの形で、アメリカのコントロール下にあったのだ。知っていただけではコントロールにならならないが、何かができたはずだということにもなる。過去の真珠湾攻撃アメリカは知っていなかったが、今回のロシアの侵略は知っていたということか。これが今の世界なのだ。知っていたアメリカがウクライナに武器を渡すことで、アメリカは戦わないでウクライナが戦っている。結果、何が起こっているか、どうも、アメリカを嫌う国と嫌わない国の二つに二極化してきているように見える。「実に、知恵が多くなれば悩みも多くなり、知識が増す者には苛立ちも増す。」(伝道者の書1章18節)「十字架につけられたキリストのほかには、何も知るまいと決してしていたからです。」(コリント人への手紙第一2章2節)知っている、ということは厄介なことだ。
 

1265、自分もアルゴリズムの虜になっているなあ

パソコンを開きつつ、自分もアルゴリズムの虜になっているなあと思った。AIのアルゴリズムに完全に支配される時代はすぐそこだ。その時、何が起こるのか。人格を信じない時代が来る。人格を分析できると信ずる時代が来る。共同体間の人格関係も分析できると信ずる時代が来る。これは「我と汝」を信じないで「我とそれ」だけに生きる時代になるということだろう。AIのアルゴリズム、これこそが反キリストなんだろう。アルゴリズムが反キリストでなくても、黙示録の反キリストはこれを用いるに違いない。これが聖書がいう方向性だと思うし、次第に加速していくのが終末の意味だと思う。

 

1264、身体性というか・・・理屈じゃない生き方のために

1、邪魔くさがらない     (聖書全体からの声)

2、ついでにやろう (うちの伝道師からの声)

3 、元の場所に戻そう  (妻の父からの声) 

4、自然体よ     (賛美の恩師からの声)

5、名前を呼ぼう   (ユダヤ哲学からの声) 

6、筆ペンで書こう (うちの伝道師からの声) 

7、整えて寝よう  (うちの伝道師からの声)

8、まず寝てスタート (安息の命令からの声) 

9、もっと自己開示を  (女性たちからの声)

10、贈物しよう、溜め込むな(聖書からの声)