1273、私の造語「ふたりごと」「みたりごと」
私は2000年に「二、三人の神学」という按手礼論文を書きました。41歳の頃です。今67歳ですから、あれから26年を経ましたが、今も「二、三人の神学」が私の生き方の中心にあります。牧会も「二、三人の神学」的に考え苦闘してきました。按手礼論文を書いたのは26年前ですが、直後に、私の按手礼論文を読んでくださった一人の牧師先生から、ブーバーという名前を教えてもらい、、ブーバーと二、三人の神学を、合わせてみようと思うようになりました。あの時から、なかなか答えが出せないまま、それでも合わせもって生きてきたように思います。二年前に武庫川キリスト教会定年になり、その頃「さけびはとどく」という本を自費出版しましたが、そこにも少しは触れたのですが、まだまだ追求初期段階、途上段階です。「二、三人の神学」とブーバーの合体はまだ答えが出ないのです。そのようななかで、「ふたりごと」と「みたりごと」という造語が、私の生きる指針になりつつあります。これだ、と勝手に思ってしまいました。「ひとりごと」でなく、「ふたりごと」「みたりごと」で生きていきたいということです。少しずつ分かち合えればと思います。
1272、No.1206の「宗教は我汝の二元性に、哲学は主観客観の二元性に基礎を置く(ブーバー)」これだ!!
1271、2019/7/17のNo.1185「1990年代に考えたしらふの神学を思い出した」を確認しながら
1990年代の、めったにしらふにならない時期があった義理の父と共に過ごした日々を思い出す。あの頃のことを忘れてはならないと思っている。会社を立ち上げた苦労人で、しらふの時は誰が見ても優しい人格者だった。しかし、しらふでない時は正反対の父に変質する。人格は変わってはならないのに、家族は突然人格が変わる恐れに翻弄されて生きていくのである。普通のクリスチャンはこの状況についていけないのが当たり前。キリスト教の普通の倫理観ではこの状況についていけないのは当たり前。直してあげる、癒してあげる、というふうにして近づいて来てもそうはいかない。普通の人は、酔って玄関で倒れている父を孫が跨いで家に入ることを決して許さない。今では当たり前になったコンビニでの酒販売に対して、憎しみに近いものを持ってしまっていた妻の気持ちがわからない。「しらふの神学」というのは、十字架のあの日、しらふだったのは、キリストだけではなかったか、という、そんな視点で見る神学である。つまり、みんなしらふではなかった、という視点で表すのが最も妥当ではないか、と今でも思っている。「しらふの神学」とはいうものの、あれからそれほど神学していなかったなあ。ブログも一年以上していなかった。そろそろ始めようか・・・
1269、人間が名付けた名前、親が名付けた名前を神さまが呼んでくださるなんて
神さまが名付けた名前を神さまが呼んでくれるならわかる。そうではなく、人間が名付けた名前を神さまが呼んでくださるのだ。すごいことだ、と思った。自分の名前が好きになれないという人もいると思う。でもその名前で神さまが呼んでくださるとしたらどうだろうか。アブラハムもまだ親がつけた名前、アブラムの時代、「アブラムよ、恐れるな」と言われた。あとでアブラハムと神さまが改名されたのですが、改名する前の親がつけた名前も改名するまでしっかりと呼ばれていた。むしろ、改名する名前も親がつけた名前とそんなに変わらないような気がする。子供の時代のクイズで、旧約聖書中、入れ歯をした人物は誰ですか? はーい、アブラハムです。胃を取った人物は誰ですか? はーい、サラです。そんなクイズがあったなあ。