1273、私の造語「ふたりごと」「みたりごと」

私は2000年に「二、三人の神学」という按手礼論文を書きました。41歳の頃です。今67歳ですから、あれから26年を経ましたが、今も「二、三人の神学」が私の生き方の中心にあります。牧会も「二、三人の神学」的に考え苦闘してきました。按手礼論文を書いたのは26年前ですが、直後に、私の按手礼論文を読んでくださった一人の牧師先生から、ブーバーという名前を教えてもらい、、ブーバーと二、三人の神学を、合わせてみようと思うようになりました。あの時から、なかなか答えが出せないまま、それでも合わせもって生きてきたように思います。二年前に武庫川キリスト教会定年になり、その頃「さけびはとどく」という本を自費出版しましたが、そこにも少しは触れたのですが、まだまだ追求初期段階、途上段階です。「二、三人の神学」とブーバーの合体はまだ答えが出ないのです。そのようななかで、「ふたりごと」と「みたりごと」という造語が、私の生きる指針になりつつあります。これだ、と勝手に思ってしまいました。「ひとりごと」でなく、「ふたりごと」「みたりごと」で生きていきたいということです。少しずつ分かち合えればと思います。

1272、No.1206の「宗教は我汝の二元性に、哲学は主観客観の二元性に基礎を置く(ブーバー)」これだ!!

ブーバーの言葉、「宗教は我汝の二元性に、哲学は主観客観の二元性にその基礎を置いている」これだ!!  問題はキリスト教は宗教なのに、まるで哲学のように主観と客観の二元性を終着地点としてしまっているところがあるのではないかと最近思うようになりました。私も20歳前後で主観と客観の区別ができるようになり、よく似たもので実存と歴史の区別もできるようになり、何か新しい世界が開かれたような気持ちになったものです。あの頃は、祈りは主観的なもの、神学は客観的なもの、というふうに分けて考えて、これで終わり、というふうな感じで生きてきました。しかし、宗教は主観と客観の分け方よりももっと奥にある「我と汝」と「我とそれ」ではないか、とブーバーを知るようになった時ぐらいから思うようになったのです。主観と客観は言語で区別していくことがある程度できますが、「我と汝」と「我とそれ」の区別はそう簡単にはいきません。なぜなら、ほとんどのものが「我とそれ」のように思えるからです。言語化したのはほとんど「我とそれ」に思えてしまい、これもあれも「我と汝」ではないと思うようになるのです。ですから、お祈りする時、どれほど呼称に注目する必要があることでしょうか。どれほど日本語の「あなた」に注目する必要があるでしょうか。どれほど、呼称と「あなた」という発話に注目する必要があるでしょうか。それにしても日本語の「あなた」は使いにくい言葉です。英語の「you」がうらやましい。しかし、「我とそれ」の黙想のキャンバスの上で、「我と汝」の世界、祈りの世界を深めていきたい。

1271、2019/7/17のNo.1185「1990年代に考えたしらふの神学を思い出した」を確認しながら

1990年代の、めったにしらふにならない時期があった義理の父と共に過ごした日々を思い出す。あの頃のことを忘れてはならないと思っている。会社を立ち上げた苦労人で、しらふの時は誰が見ても優しい人格者だった。しかし、しらふでない時は正反対の父に変質する。人格は変わってはならないのに、家族は突然人格が変わる恐れに翻弄されて生きていくのである。普通のクリスチャンはこの状況についていけないのが当たり前。キリスト教の普通の倫理観ではこの状況についていけないのは当たり前。直してあげる、癒してあげる、というふうにして近づいて来てもそうはいかない。普通の人は、酔って玄関で倒れている父を孫が跨いで家に入ることを決して許さない。今では当たり前になったコンビニでの酒販売に対して、憎しみに近いものを持ってしまっていた妻の気持ちがわからない。「しらふの神学」というのは、十字架のあの日、しらふだったのは、キリストだけではなかったか、という、そんな視点で見る神学である。つまり、みんなしらふではなかった、という視点で表すのが最も妥当ではないか、と今でも思っている。「しらふの神学」とはいうものの、あれからそれほど神学していなかったなあ。ブログも一年以上していなかった。そろそろ始めようか・・・

 

1270、今週も、福音書の「わたし」という言い方で説教しました。

 今週の説教でも、私は、福音書の「わたし」とか、ひらがなの「わたし」とか、そんな言い方をしていました。新改訳聖書では人間が「私」と言った時には漢字の「私」になっていますが、神さまが「わたし」と言った時にはひらがなの「わたし」になっています。ですから、福音書ではイエスキリストが「わたし」と言われた時は「わたし」となっています。私は牧師をしていますが、このひらがなの「わたし」を伝えることが私の使命だと思っています。このひらがなの「わたし」は他のものに入れ替えることができません。私たちは漢字の「私」であっても、決して入れ替えできませんが、このひらがなの「わたし」も、絶対に入れ替えできないものです。

 

1269、人間が名付けた名前、親が名付けた名前を神さまが呼んでくださるなんて

 神さまが名付けた名前を神さまが呼んでくれるならわかる。そうではなく、人間が名付けた名前を神さまが呼んでくださるのだ。すごいことだ、と思った。自分の名前が好きになれないという人もいると思う。でもその名前で神さまが呼んでくださるとしたらどうだろうか。アブラハムもまだ親がつけた名前、アブラムの時代、「アブラムよ、恐れるな」と言われた。あとでアブラハムと神さまが改名されたのですが、改名する前の親がつけた名前も改名するまでしっかりと呼ばれていた。むしろ、改名する名前も親がつけた名前とそんなに変わらないような気がする。子供の時代のクイズで、旧約聖書中、入れ歯をした人物は誰ですか?   はーい、アブラハムです。胃を取った人物は誰ですか?  はーい、サラです。そんなクイズがあったなあ。

 

1268、「名前の哲学」144頁 「神がみずからの名前を持つのはわれわれのためであり、われわれが神の名前を呼べるようにするため」

名前の哲学144頁「神がみずからの名前を持つのはわれわれのためであり、われわれが神の名前を呼べるようにするため」(ローゼンツヴァイク2011.107頁)
 
 最近、気づかされていることは、「名前「の軽視だ。特に学問の領域では「名前」は厄介者に見えてくる。固有の「名前」を用いることにかなり慎重である。それが客観的な学問ということであろう。しかし、ローゼンツヴァイクを読んでいると、そんな傾向に対して、違う、違う、と思ってくる。ましてや「名前」を超えて「呼称」こそが大事だ、なんていう考えを客観的な学問領域に入れるわけにはいかない。しかしわかっていても寂しい風が吹き抜ける。
 
 イエスさまの弟子たちが、イエスさまが親しい間柄であるかのように「アバ父」と神さまを呼んでいる姿にかなり違和感を覚えたことであろう。そこに不思議とか神秘とかを覚えたであろう。しかし、何も神秘でなく、親しい会話、対話というものは「呼称」から始まっていくことを主も生き方で表されたように思う。私は呼びかける時には「イエスさまぁ」と言いつつも、同じ人間が、人に説明する時は、「イエス」と呼び捨てしていることにかなりの違和感を感じてしまう。聖書も「イエス」と書かれているのだからそれでいいのだが、その「イエス」との関係性をどう思っているのか、ということばかり思ってしまうのだ。背景に子供の時から「イエスさま」と言わないといけないと思ってきたからだと思う。
 
 でも英語のJesusとは違う、何か、である。私は日本人的には、名前に関しては、生きている関係性を表していくために自然に生き生きと言い換えることもあっても良いように思う。「イエス」になったり、「イエスさま」になったり、「あなた」になったり、「あなたさま」になったり・・。私は賛美と聖書を読む時は「あなた」と発話するが、祈りのなかでは「あなた」と言えないなあ。私の主観です。ローゼンツヴァイクさん、もうちょっと教えてほしい・・