2017-08-01から1ヶ月間の記事一覧
本当に、私ひとり? 武庫川キリスト教会牧師 武田信嗣 第一列王記十九章一〜十八節ここには弱くなったエリヤが描かれています。弱くなったエリヤは、大勝利者だったのに、国家権力よる殺害計画の報を聞いた途端、力を失い、えにしだの木陰でふて寝をしたので…
来世がこっちに来た、というのは「神の国が近づいた」というイエスさまの宣言からわかる。将来、来世がこっちに来るというのは、イエスさまが再臨の約束をしてくださったことからわかる。
きっと神道は現世宗教、仏教は来世宗教。キリスト教は、現世宗教でも来世宗教でもない。イエスさまとの人格関係宗教である。イエスさまとの二者関係から始まる人格関係の広がりの宗教である。
内村は1916年にすでに実感していたのだ。彼の視座は、メノナイトのヨーダーに近いものがある。私もかなり、これである。西洋の体制教会のなかの多くのものを否定したくなっている。一旦否定した上で、初代教会から細く長く続いてきたものへの強い信仰も体制…
15年以上前から岡山先生が述べられていたことが、今も変わらず説得力がある。いや15年前よりも説得力が増している。私もローマ帝国のパックスロマーナと、アメリカのパックスアメリカーナが重なって来る。またこれからは、東の巨人である中国も同じような平…
コンスタンチヌス帝以前は本当に原始キリスト教だったのだろうか。もう少し連続的に捉えたら良いのではないかという声が聞こえてくる。きっと連続的に捉えたほうが正しく理解できる内容もあるかもしれない。しかし連続的に捉える歴史観が説得力を増したとし…
これからのキリスト教は、boundary(境界線志向)よりもCenterd(中心志向)で行くべきだと思う。しかし、Centerdを理解してもらうのはなかなか難しい。だから、理解しにくくなってくると、再びboundaryに戻ってしまうのだろうなあ。私の考えるJESUSCenterd…
現在の日本のキリスト教会が共有しようとしているのが、礼拝のリタジーだろうと思う。どの教派も自分たちのリタジーを追求し、追求した上で教派を超えて一緒にリタジー共有の可能性を確かめていく、これが今の教会の動きだろうと思う。しかし再洗礼派の場合…
日野原氏の座右の銘だそうだ。「汝と我」のブーバーの言葉だから余計に身近に感じる。確かにアブラハムも高齢となって新しいことに挑戦し、信仰の父となった。モーセも高齢となって新しいことに挑戦し、出エジプトを成功させた。
日本の森は美しい。でもそこにはいろいろあるぞ、良さそうな霊もあれば、悪そうな霊もある。優しそうものもあれば、残酷なものもある。つまり森は大きすぎるのである。故郷の森にも色々いるのである。それを一言で、美しいとまとめてしまいたくない。またカ…
カルヴァン主義は全領域の主を追求する。追求するだけでなく、組織神学を作ってきた。あらゆる領域に向けての言葉を持っているのが凄いことだと思う。それに対して再洗礼派を源流とするメノナイトはその点は弱い。ですから、メノナイトもカルヴァン主義の構…