2018-01-01から1年間の記事一覧
モアブの位置に注目しなければならないなあ。もしかすると私たちもすぐにモアブの位置に立つことがあるのではないかなあ。ちょっと離れたところ(死海を挟んで反対側)で、高ぶる自分がいるのではないかなあ。世界情勢を見ながら、島国日本も良く似た面があ…
「礼拝と音楽」を授業に合わせて書き直しています。現在No.4まで書き直しました。
家内がユマニチュードを学んできた。悪霊を追い出すイエスさまのような奇跡を見たようなことを言っていた。私たちは最後の最後まで人格関係を信じ抜くから人間なんだ。「我とそれ」ではなく、「我と汝」を信じ抜くから人間なんだ。ユマニチュードには、信じ…
美しい日本というふうに感動している人を否定できない。美しいイスラエルというふう感動している人を否定できない。天国を見たと感動している人を否定できない。結局、キリスト教の福音は本当にこれが故郷だ、とリアリティある形で説得できないとどうしよう…
私は、教会で、信仰の先輩たちが、よく「魂の救い」「魂の救い」(日本語)と言っているのを聞いてきた。先輩たちは「魂の叫び」「魂の空虚感」のなかで、それを罪だと認識するようになり、その魂の叫びの答えとして「魂の救い」(日本語)と言うようになっ…
今日の箇所を読みながら、「さばきたまえ」の詩篇の言葉が頭をよぎる。人は正しいさばきを欲しているものであったはずだ。ただ人によるさばきに対して、人は失望してしまって、さばき自体に対する不信感が私たちにある。私たちが生きる日本の地では、このよ…
1090、1099で述べた感動が今も続いている。教会にも流入しかねない暴力で秩序を保つという一般では説得力のある物語がある。この秩序は決して教会発の秩序ではないと、そのたびそのたびに取捨選択し、非暴力の秩序で生き抜く、印としての教会共同体をハワワ…
私たちのような自由教会は、公同理解が弱いので、公同教育がどうしても必要だと思う。「元旦礼拝がうちではないので、武庫川キリスト教会に来ました」と来てくださった改革派教会の信者さんがいた。観光地で何としても教会を捜して出席する人、出張で何とし…
自分の小さな経験だが、「人格」という言葉を使う度に全然通じない虚しさを感じ続けてきた。「人格」は日本語として定着していないように思う。日常会話のなかでは全く馴染まない言葉が「人格」だと思う。説教のなかでも必ず地に落ちる言葉が「人格」だ。も…
相手が求めている以上のことを答えてしまうと相手はわからなくなります。牧師はそれでよく失敗します。相手はそのことを聞きたいのではないのです。もし求めている以上のことを答えてしまうと、牧師は単に教えただけということになります。人は必ずしも教え…
古屋安雄氏の「なぜ日本にキリスト教は広まらないか」に、churchを公会でなく教会と訳した理由、卒業生が多い理由、などが述べられていた。明治初期、下級武士出身の知的階層がクリスチャンの指導者となり、「学校」のイメージで教会を捉えたからだそうだ。…