1133、包括的人間論はわかるが、「魂」にはインパクトがあった

 私は、教会で、信仰の先輩たちが、よく「魂の救い」「魂の救い」(日本語)と言っているのを聞いてきた。先輩たちは「魂の叫び」「魂の空虚感」のなかで、それを罪だと認識するようになり、その魂の叫びの答えとして「魂の救い」(日本語)と言うようになったのだろう。またこの言葉に注目したいのは、一般の日本人も、「魂の救い」ということばがわからないわけではないと思ったからである。イエスさまは私たちの魂だけの救い主ではないのは当然であるが、魂の救い主である。魂だけが神の支配下に入るのではないが、魂が神の支配下にいることを認識するのである。日本人の敗戦後の魂の渇望を、私は父の魂の叫びから見た。だから父の葬儀式では父の功績を語るのでなく、父の叫びを代弁しようとした。ただ父の叫びをなかなか理解できない。父の魂の叫びを知ろうとは思ってはいる。確かに父の叫びがあったからである。