2018-07-01から1ヶ月間の記事一覧
キリスト教が日本宗教の対立軸にあると思われていたとしても、キリストご自身は異なるものであることを証明していく必要がある。キリスト=キリスト教ではないこと、キリスト=キリスト教文化でないこと、キリスト=キリスト教近代主義でないこと、を証明し…
イエスさまはニコデモにも、サマリヤの女性にも、優しく対決的に「罪の形」と「神の形」を信じ抜く伝道をなさった。
福音は、宗教でも無宗教でもない。恵みを通して神と関わる三つ目の方法であり、それは完全に別物だ。だからこそ私たちは、どちらかの極端に陥るという過ちを避ける、特有のバランスの取れた方法で、福音の鋭さを誠実に伝える。 — ティモシー・ケラー
何時ぞやのよきおとずれの原稿をアップ 聖書箇所は、第一列王記十九章一〜十八節 ここには弱くなったエリヤが描かれています。弱くなったエリヤは、大勝利者だったのに、国家権力よる殺害計画の報を聞いた途端、力を失い、えにしだの木陰でふて寝をしたので…
人格神を信じないなら、それを徹底してほしい。でも人はみな本当は人格神に出会いたいと思っていると思う。必ず信じていないという人たちも呼応してくれると信じている。
最初に想像力で広がらないと絞り込みなんかできない。想像力で広がる最初が日曜日の晩だと思う。私にとっては、前の週の週報に次週のタイトルを記述するあの時だ。
両方に問題があると思ってきた。でも両方を積極的に評価するものでありたい。今の時代は「神が」が言えない。「イエスが」が言えない。深さはがり強調して、受肉した感じが出てこない。それほど世俗主義が強いんだろうなあ。教会でも・・。
よく言われる、私がしてあげたのに、クリスチャンは神がしたと思っている、これが嫌だ、という発言を。クリスチャンはここでくじけてはならない。神がしてくれたのだ。あなたを用いて、である。ここを引いてしまうと、恵みを語れなくなるだろうなあ。
縁、ですから、ということで伝道していくのは、日本人の心に届きやすいということがある。どう考えたら良いか。運命論や、宿命論や、仏教的な東洋思想を計算に入れて伝道すべきだということなのか。
ハワワースの講演を聞く、私のなかでは、ハワワースを読んできたが、ナウエンも読んできた。二つが別世界のように思ってきたが、両方がくっついた。ラルシュという現場で・・。