どのように伝道していこうか
「究極的実在を人格神と捉える考え方と、非人格的な存在と捉える考え方は、どの宗教伝統にもある。だが、エルサレムを中心とする諸伝統は前者を重んじ、ベナレスを中心とする諸伝統は後者を重んずる、という一般化は許されるように思う。神は、人格的で、言…
キリスト教が日本宗教の対立軸にあると思われていたとしても、キリストご自身は異なるものであることを証明していく必要がある。キリスト=キリスト教ではないこと、キリスト=キリスト教文化でないこと、キリスト=キリスト教近代主義でないこと、を証明し…
イエスさまはニコデモにも、サマリヤの女性にも、優しく対決的に「罪の形」と「神の形」を信じ抜く伝道をなさった。
福音は、宗教でも無宗教でもない。恵みを通して神と関わる三つ目の方法であり、それは完全に別物だ。だからこそ私たちは、どちらかの極端に陥るという過ちを避ける、特有のバランスの取れた方法で、福音の鋭さを誠実に伝える。 — ティモシー・ケラー
人格神を信じないなら、それを徹底してほしい。でも人はみな本当は人格神に出会いたいと思っていると思う。必ず信じていないという人たちも呼応してくれると信じている。
縁、ですから、ということで伝道していくのは、日本人の心に届きやすいということがある。どう考えたら良いか。運命論や、宿命論や、仏教的な東洋思想を計算に入れて伝道すべきだということなのか。
旧約聖書の律法でユダヤ人は養育された。その結果、二つの道に別れた。一つの道はお兄さんの道、もう一つの道は弟の道だった。お兄さんは故郷にいたが父の心から離れていた。弟は故郷から離れて、父の心からも離れていた。父が願っていたのは、父の心に近づ…
リディーマーとは、ティモシーケラーがニューヨークで牧会している教会・・・ 1. 福音的で神学的な深さ(教理的に浅い、プラグマティックで、内省的でない、方法主導型に対 して)2. すべてのことに適用される恵みへの不断の認識(律法主義や冷たい知性主義…
昨日、教会でお葬式を願われている方が紹介されて来られて、すぐに信仰告白をされた。こんなふうな事例がこれからも起こるのだろうなあ。日本の宣教はこれなんだろうかと考えさせられた。この話をしていると、1人の方が私に、別の方がお葬式は教会でしてほし…
故郷は人間が作るのではない、神さまが作ってくださるのだ。しかし故郷作りとしての教会像に今魅力を感じている。故郷だからこそ帰ってくる。帰ってくる場所として教会像に魅力を感じているのだ。ちょうど放蕩息子の父の家を表現できればと願うのである。こ…