私なりの霊性神学

1126、序論「人格について語ることの難しさ」(稲垣良典氏)アーメン!!!!

自分の小さな経験だが、「人格」という言葉を使う度に全然通じない虚しさを感じ続けてきた。「人格」は日本語として定着していないように思う。日常会話のなかでは全く馴染まない言葉が「人格」だと思う。説教のなかでも必ず地に落ちる言葉が「人格」だ。も…

1123、本当の休みとは関係的なもの。負い目が取り去られること

「本当の休みとは関係的なもの、負い目が取り去られること」だと自分で信じたら、そのように生きるべきだと思う。でも負い目が取り去られていない現実に直面する私たちは、今なお、休みの奥義を追求するものとして生きることになる。人との関係においては、…

1121、AIで高学歴不要時代が到来するという。ブーバーを追求せよ

1107、人格というものは、人格関係的な対話によって気づいていくもの

1105、人格関係的対話を客観的に100回語るよりも、絶えず祈ることだ

1104、人格というのは「人格関係的対話」で目覚めていくものだと思う

1102、発言に神が多すぎるのも問題。「神」が出てこないのも問題

両方に問題があると思ってきた。でも両方を積極的に評価するものでありたい。今の時代は「神が」が言えない。「イエスが」が言えない。深さはがり強調して、受肉した感じが出てこない。それほど世俗主義が強いんだろうなあ。教会でも・・。

1101、してあげたのに神の恵みだと言う、際どさ、危うさ、不思議さ

よく言われる、私がしてあげたのに、クリスチャンは神がしたと思っている、これが嫌だ、という発言を。クリスチャンはここでくじけてはならない。神がしてくれたのだ。あなたを用いて、である。ここを引いてしまうと、恵みを語れなくなるだろうなあ。

1099、ナウエンとハワワース、ラルシュで繋がるとは思ってもみなかった

ハワワースの講演を聞く、私のなかでは、ハワワースを読んできたが、ナウエンも読んできた。二つが別世界のように思ってきたが、両方がくっついた。ラルシュという現場で・・。

1098、ナウエンのリーダシップ論を知って教会形成が根本的に変わった

1089、よく聞く「コミュニケーション能力」という言葉、少し違和感がある

この世界ではもっとも大切な言葉なんだろう。でも教会的にはどうなんだろう。私はいつの間にか、存在論よりも関係論で物事を考えるようになった。そして無意識のうちに、存在論と関係論のバランスで生きているように思う。ですから、存在論が大切なのはわか…

1088、「故郷作りの神学」の超えたところに「さらに優れた故郷」がある

故郷は人間が作るのではない、神さまが作ってくださるのだ。しかし故郷作りとしての教会像に今魅力を感じている。故郷だからこそ帰ってくる。帰ってくる場所として教会像に魅力を感じているのだ。ちょうど放蕩息子の父の家を表現できればと願うのである。こ…

1084、固いものがあるから冒険もした。その固い部分が揺れることがある

固いと思っていた部分はまだまだ中心ではなかったのだ。でも合理的に説明できないままに、中心をじっと見つめてつつ、これからも相対化すべきことは相対化していかねばならないのだろうなあ。

1083、教会はホームだ。故郷だ。その上でさらに優れた故郷を示すのだ

1002、絶対化があるから相対化という言葉が出てきた。んー相対化??

983、聖句は知識の蓄積のためにあるのでなく、変えて頂くためにある

服を着ていくのではなく、脱いでいくイメージで聖句を覚えていこう!!

976、自分の意思が届かぬ所は神の領域。届かぬ他者の意思は????

975、受肉だけが謙遜。我々の謙遜は嘘。我々の謙遜とは傲慢のことだ

974、「みだりに神の名を唱えるな」神を信じていればみんなわかるはず

973、「我と汝」関係なら、お互いの呼び方は確かめ合って決めたらいい

967、歴史の連続性が問われるが、非連続性も問われるべきではないか

カリスマ運動、根本主義、諸聖霊運動に見られるものは非連続性であろう。奇跡が起こるというのも非連続的なことだろう。すでにある文脈との連続性がない。連続性の重要性を学んできた。連続性は歴史を見つめることの大切さを教えてくれた。しかし非連続性に…

941、全ての人は内に右と左を持つ。大切なのは右と左の対話の具合。

940、本当の両極端を教え給え。その上で諦めない対話の人とし給え。

939、親子関係の絆と境界線の視点で、神秘性と対話性の具合を探ろう

938、霊性とは曖昧な神秘性でなく、対話的人格関係から探る人格性

935、「キリエイレイソン」(主よ、憐れみ給え)が私を癒してくれている。

854、神との対話なしに、遠くから御心を知ることができるのか、無理だ!

遠くから御心を知ろうとする人たちは、客観、客観、と言う。また批評的視点で御心を語ろうとする。しかし案外、神の近くで対話するだけで簡単にわかることがある。神の近くで対話する術は、祈り、賛美、礼拝、聖書、である。それも個人ですることもできるし…

671、神学で神さまを客観的に知ったつもりになっても成長とは関係ない

670、神学で自分を客観的に知ることができても成長とはあまり関係ない

669、「遠くから想像するより対話せよ」これは対神にも対人にも言える