私なりの霊性神学
自分の小さな経験だが、「人格」という言葉を使う度に全然通じない虚しさを感じ続けてきた。「人格」は日本語として定着していないように思う。日常会話のなかでは全く馴染まない言葉が「人格」だと思う。説教のなかでも必ず地に落ちる言葉が「人格」だ。も…
「本当の休みとは関係的なもの、負い目が取り去られること」だと自分で信じたら、そのように生きるべきだと思う。でも負い目が取り去られていない現実に直面する私たちは、今なお、休みの奥義を追求するものとして生きることになる。人との関係においては、…
両方に問題があると思ってきた。でも両方を積極的に評価するものでありたい。今の時代は「神が」が言えない。「イエスが」が言えない。深さはがり強調して、受肉した感じが出てこない。それほど世俗主義が強いんだろうなあ。教会でも・・。
よく言われる、私がしてあげたのに、クリスチャンは神がしたと思っている、これが嫌だ、という発言を。クリスチャンはここでくじけてはならない。神がしてくれたのだ。あなたを用いて、である。ここを引いてしまうと、恵みを語れなくなるだろうなあ。
ハワワースの講演を聞く、私のなかでは、ハワワースを読んできたが、ナウエンも読んできた。二つが別世界のように思ってきたが、両方がくっついた。ラルシュという現場で・・。
この世界ではもっとも大切な言葉なんだろう。でも教会的にはどうなんだろう。私はいつの間にか、存在論よりも関係論で物事を考えるようになった。そして無意識のうちに、存在論と関係論のバランスで生きているように思う。ですから、存在論が大切なのはわか…
故郷は人間が作るのではない、神さまが作ってくださるのだ。しかし故郷作りとしての教会像に今魅力を感じている。故郷だからこそ帰ってくる。帰ってくる場所として教会像に魅力を感じているのだ。ちょうど放蕩息子の父の家を表現できればと願うのである。こ…
固いと思っていた部分はまだまだ中心ではなかったのだ。でも合理的に説明できないままに、中心をじっと見つめてつつ、これからも相対化すべきことは相対化していかねばならないのだろうなあ。
服を着ていくのではなく、脱いでいくイメージで聖句を覚えていこう!!
カリスマ運動、根本主義、諸聖霊運動に見られるものは非連続性であろう。奇跡が起こるというのも非連続的なことだろう。すでにある文脈との連続性がない。連続性の重要性を学んできた。連続性は歴史を見つめることの大切さを教えてくれた。しかし非連続性に…
遠くから御心を知ろうとする人たちは、客観、客観、と言う。また批評的視点で御心を語ろうとする。しかし案外、神の近くで対話するだけで簡単にわかることがある。神の近くで対話する術は、祈り、賛美、礼拝、聖書、である。それも個人ですることもできるし…