1123、本当の休みとは関係的なもの。負い目が取り去られること

 「本当の休みとは関係的なもの、負い目が取り去られること」だと自分で信じたら、そのように生きるべきだと思う。でも負い目が取り去られていない現実に直面する私たちは、今なお、休みの奥義を追求するものとして生きることになる。人との関係においては、自分のなかでは解決できていても、相手は解決できていないということがある。相手は気にしていないことを自分だけが負い目としていることもある。ただ感謝なことは、神との関係においては、信仰で負い目が取り去られたと信じて生きている。この信仰、厚かましいんじゃないかと思ったりもするがこの信仰で休みが保たれていることを感謝しよう。一方で、すぐに傲慢になることを知っている自分がいて、「憐れんでください」を連発している。