2018-01-01から1年間の記事一覧
「本当の休みとは関係的なもの、負い目が取り去られること」だと自分で信じたら、そのように生きるべきだと思う。でも負い目が取り去られていない現実に直面する私たちは、今なお、休みの奥義を追求するものとして生きることになる。人との関係においては、…
「究極的実在を人格神と捉える考え方と、非人格的な存在と捉える考え方は、どの宗教伝統にもある。だが、エルサレムを中心とする諸伝統は前者を重んじ、ベナレスを中心とする諸伝統は後者を重んずる、という一般化は許されるように思う。神は、人格的で、言…
キリスト教が日本宗教の対立軸にあると思われていたとしても、キリストご自身は異なるものであることを証明していく必要がある。キリスト=キリスト教ではないこと、キリスト=キリスト教文化でないこと、キリスト=キリスト教近代主義でないこと、を証明し…
イエスさまはニコデモにも、サマリヤの女性にも、優しく対決的に「罪の形」と「神の形」を信じ抜く伝道をなさった。
福音は、宗教でも無宗教でもない。恵みを通して神と関わる三つ目の方法であり、それは完全に別物だ。だからこそ私たちは、どちらかの極端に陥るという過ちを避ける、特有のバランスの取れた方法で、福音の鋭さを誠実に伝える。 — ティモシー・ケラー
何時ぞやのよきおとずれの原稿をアップ 聖書箇所は、第一列王記十九章一〜十八節 ここには弱くなったエリヤが描かれています。弱くなったエリヤは、大勝利者だったのに、国家権力よる殺害計画の報を聞いた途端、力を失い、えにしだの木陰でふて寝をしたので…
人格神を信じないなら、それを徹底してほしい。でも人はみな本当は人格神に出会いたいと思っていると思う。必ず信じていないという人たちも呼応してくれると信じている。
最初に想像力で広がらないと絞り込みなんかできない。想像力で広がる最初が日曜日の晩だと思う。私にとっては、前の週の週報に次週のタイトルを記述するあの時だ。
両方に問題があると思ってきた。でも両方を積極的に評価するものでありたい。今の時代は「神が」が言えない。「イエスが」が言えない。深さはがり強調して、受肉した感じが出てこない。それほど世俗主義が強いんだろうなあ。教会でも・・。
よく言われる、私がしてあげたのに、クリスチャンは神がしたと思っている、これが嫌だ、という発言を。クリスチャンはここでくじけてはならない。神がしてくれたのだ。あなたを用いて、である。ここを引いてしまうと、恵みを語れなくなるだろうなあ。
縁、ですから、ということで伝道していくのは、日本人の心に届きやすいということがある。どう考えたら良いか。運命論や、宿命論や、仏教的な東洋思想を計算に入れて伝道すべきだということなのか。
ハワワースの講演を聞く、私のなかでは、ハワワースを読んできたが、ナウエンも読んできた。二つが別世界のように思ってきたが、両方がくっついた。ラルシュという現場で・・。
私の両極端テキストとコンテキスト 選びと信仰 存在と関係 主観と客観 実存と歴史 公同と自主 教理と物語 人格関係と非人格関係 宣教と礼拝 世俗国家と神の国 包括と被包括 個人と共同体 一と多 男と女 創造主と被造物 対話と非対話
旧約聖書の律法でユダヤ人は養育された。その結果、二つの道に別れた。一つの道はお兄さんの道、もう一つの道は弟の道だった。お兄さんは故郷にいたが父の心から離れていた。弟は故郷から離れて、父の心からも離れていた。父が願っていたのは、父の心に近づ…
リディーマーとは、ティモシーケラーがニューヨークで牧会している教会・・・ 1. 福音的で神学的な深さ(教理的に浅い、プラグマティックで、内省的でない、方法主導型に対 して)2. すべてのことに適用される恵みへの不断の認識(律法主義や冷たい知性主義…