881、体制リタジーの歴史を尊重し評価した上でノンリタジーで生きよう!

 現在の日本のキリスト教会が共有しようとしているのが、礼拝のリタジーだろうと思う。どの教派も自分たちのリタジーを追求し、追求した上で教派を超えて一緒にリタジー共有の可能性を確かめていく、これが今の教会の動きだろうと思う。しかし再洗礼派の場合は、500年前に、そのようなリタジーを完全否定して、歩みだした群れである。がゆえに、アイデンティティーを求めていくと、体制教会のリタジー(礼拝学)を共有することができなくなってしまう。そのあたりの礼拝学を持たぬ礼拝学という意味で、私たちは「ノンリタジー」という言葉を使用していきたい。ただ体制教会のリタジーを尊重し評価し対話することなく歩んだとしたら、500年前の時代ではないのに孤立してしまうだろう。現にMBはノンリタジーで歩んできたはずなのに、ルーテル、カルヴァン聖公会のリタジーの影響を少なからず受けてきたのである。体制教会の賛美歌を歌ってきたのだから、影響はなかったとは絶対に言えない。