聖書的平和主義への渇望10

  そのように教会改革の材料が自教派のなかに割合整っているという意味で、MB教会が「自由教会」であることを我らの賜物として引き出しても良いかもしれない。しかし、もし我々の賜物が「自由教会」であるならば、「自由教会」追求への手をゆるめてはならない。礼拝においてもそうであるが、「自由教会」なのに「自由教会」的でない要素がどんどん増え続けている。ある方が私に次のようなことを言われた。「どうして日本メノナイト・ブレザレン教団はメノナイトなのに『教団』なのですか。」この意見は本質をついた意見だと今でも思っている。つまり「教団」の道と「自由教会」の道の二つを合わせることかなかなか難しいのである。日本宣教を推進するにあたり、どうしても「教団」の道の追求する必要があろう。しかしもう一方で、MBの賜物である「自由教会」として、急進的な思い切った自由な風を日本のキリスト教世界に送るぐらいの気持ちも必要ではないかと思う。

 セルグループ運動、スモールグループ運動も、家の教会運動も、徹底した「自由教会」的思考から出てきた発想である。私は初代教会の説明をするとき、コリント教会という建物はなかったんですよ、そびえ立つカテドラルはなかったんですよ、から始める。なぜならコリント教会という建物は迫害下ではあり得ないかったからですと言ってから、何があったかを説明します。つまりコリントに幾つかの家の教会群、自由教会群ができていったんですよ、それを全部合わせてコリント教会と言っていたんですよというようにしている。しかし一方でそれを統合する公同への関心を高めねばならないと考えている昨今である。