聖書的平和主義への渇望

聖書的平和主義への渇望15

5節 何がMBだけの賜物なのか 上述したように、MBは原点にもどるなかで、かなり特徴ある賜物を発見できそうな歴史を持つ。しかし現在のMB教会を見る限りにおいては、普通の福音的教会との相違を感ずるMB人は殆どいないであろう。なぜなら、MBは、他の教派と同…

聖書的平和主義への渇望14

5節 MBの賜物は「弟子の共同体」(コロニー)か。 このことに魅力を感じる他教派の人たちはいつの時代にも現れてきているようである。前トリニティー神学校校長のケネス・カンツァーもその一人であった。彼は次のように語っている。 「アナバプティストの際…

聖書的平和主義への渇望13

4節 MBの賜物は「再洗礼」か 再洗礼主義(信仰洗礼)に関しては、現代福音主義の主流派が今もなお引き継いでくれている内容であるので、今さらMBの賜物として出すほどの時代でなくなったかもしれない。しかしどの教派も時代の変換とともに、旧約聖書と新約聖…

聖書的平和主義への渇望12

また、再洗礼派の「弟子の道」には次のような視点もあった。再洗礼派の人たちはマタイ18章の「教会戒規」を忠実に行おうとした。メノナイト派はマタイ18章実践を真正面から取り組んできた歴史があったのである。確かにそれがゆえに、分裂を繰り返し、多くの…

聖書的平和主義への渇望11

3節 またメノナイトは国教会制度の下にある「会衆の道」でなく、初代教会的な「弟子の道」を強調する群れであった。彼らは「会衆の道」と「弟子の道」を並べて、「あれかこれか」を急進的に選択するなかで、「会衆の道」の方を否定することで、「弟子の道」…

聖書的平和主義への渇望10

そのように教会改革の材料が自教派のなかに割合整っているという意味で、MB教会が「自由教会」であることを我らの賜物として引き出しても良いかもしれない。しかし、もし我々の賜物が「自由教会」であるならば、「自由教会」追求への手をゆるめてはならない…

聖書的平和主義への渇望9

私が自分が所属する日本メノナイト・ブレザレン教団の神学校である福音聖書神学校で「教会音楽」の授業を受け持つようになったのも、この信念に基づいている。現在は「礼拝と音楽」という名前の授業であるが、この中で礼拝学を学ぶのであるが、私の教える礼…

聖書的平和主義への渇望8

私も日本MB教会のなかにすでに内包されている自由教会的要素と非自由教会的要素の一つ一つを検証していくことによって、今まで見えてなかった新しい光が見えてくるのではないか、本来この発想を持つことがもっとも容易であった教派がMBではなかったか、との…

聖書的平和主義への渇望7

2節 MBの賜物は「自由教会」か 私はH・フリーゼン宣教師の書かれた「メノナイト・ブレザレンとは」(MB教団出版委員会発行)のなかで、MBの歴史が国教会と分離した「最初の自由教会」であったことが強調されていることを知り、教会論の面でかなり刺激的で、…

聖書的平和主義への渇望6

その後、MBは第三の故郷を作っていく。ドイツ敬虔主義という第二の故郷を経験したグループのほとんどが、第三の故郷を経験していったように、MBも第三の故郷を経験していった。それがドイツバプテストからの神学の提供であった。ウクライナにいながら、彼ら…

聖書的平和主義への渇望5

1節 MBの誕生 さて、このようなユニークなメノナイト派の流れのなかで、どのようにMB(メノナイトブレザレン)は誕生したのであろうか。実は、彼らは普通のメノナイトとして過酷な国教会からの迫害から生き延びるために、脱出の連続の結果、ウクライナの荒野…

聖書的平和主義への渇望4

これが門外のウェーバーが感じた20世紀初頭のキリスト教界の再洗礼派に対する雰囲気であった。しかし、奇妙なのは、実際は北米のピューリタン達は建国当初は「英国国教会に変わるカルヴィニズム的神政国家を目指すのだ」と言う幻を描いていた筈であったにも…

聖書的平和主義への渇望3

しかし、このスイスで始まった再洗礼派運動は、少し遅れて登場した一人の際立った司牧者意識の持ち主、オランダのメノ・シモンズ(Menno Simons)という人物によって穏健的に統合・継承されていくこととなる。カトリックの聖職者であった彼は、長年悩み抜い…

聖書的平和主義への渇望2

ときは約500年前。西洋においては、あのプロテスタント宗教改革(1517年〜)の時代、その影響を受けてカトリック側も負けじと、対抗宗教改革を行ない、イエスズ会のフランシスコザビエル(1506年〜1552年)などが生命をかけて地の果て日本にまで到達した(15…

聖書的平和主義への渇望1

第1章 MB教会の賜物は何なのか? 「自らの特殊性を強調して自己確認する時代はもう終わったのだ!」という声があちらからこちらから聞こえてくる。「うんそうだ、本当にその通りだ! 私にとって、イエスさま以外のことは重要ではない」と自分に言い聞かせながら…