聖書的平和主義への渇望13

4節 MBの賜物は「再洗礼」か
 再洗礼主義(信仰洗礼)に関しては、現代福音主義の主流派が今もなお引き継いでくれている内容であるので、今さらMBの賜物として出すほどの時代でなくなったかもしれない。しかしどの教派も時代の変換とともに、旧約聖書新約聖書の関係において、非連続を詠う神学から連続を詠う神学に変容していく傾向があるようで、例えば、旧約における「割礼」の置換としての「幼児洗礼」という流れもまだまだ強い神学として残り続けるであろう。その意味で再洗礼主義の主張が、福音主義においても、いつしか非主流となるかもしれない。がゆえに、今に至っても、再洗礼主義を叫ぶトーンは落としてはならない。その意味で、今もなお、再洗礼の意義をMBの賜物として引き出しても良いであろう。

 今なお、キリスト教会において、再洗礼主義が急進的であるという理解だけでなく、再洗礼の行為そのものが急進的であるというイメージは今も潜在的に残り続けているのではないだろうか。日本において「キリシタン=殉教」のイメージが強いように、キリスト教においては「再洗礼=急進的=殉教」のイメージが今も残っているのではないだろうか。牧師のふとした言葉のなかで、アナバプティズムと聞くと「過去の狂信的な急進派・・・」という一言葉で片付けられてしまうなかで、「単純、素朴、純粋」な信仰への恐れがクリスチャンの潜在に残っているのではないかと思ってしまう。再洗礼派についての卓越した研究者であられる出村彰氏は再洗礼主義の特徴を次のように指摘している。

 「再洗礼の立場はあくまでも激しい断絶、非連続のそれであった。それは律法と福音、この世の教会、政治と宗教において逃れようのない「あれか、これか」を求める立場であった。しかし、問題は残る。それでは教会史に先立つ旧約のイスラエルの救済史的意味は無になるのか。そもそも創造の秩序はどうなるのか。さらには、もっと深刻に、それに続く教会の歴史はどうなるのか。それはおそらく再洗礼派のみならず、福音主義全体への問いかけであろうが、再洗礼主義がプロテスタンティズムの収けんした形であるかぎり、とくに再洗礼派にとって避けられないものと思われる。」

 MBはディスペンセーション神学に生きてきたが、ディスペンセーション神学のような非連続神学であっても、最近のプログレッシブディスペンセーショナリズムには、連続性への模索が見られる。アナバプティズムにおいても旧約聖書の「シャローム」からの連続性を追求する動きも見られる。そのことを尊重しつつも、再洗礼主義の本来的な原動力は、非連続性、急進性にあるのであろう。と言っても、MBは聖霊運動、行き過ぎた神秘主義の道を歩まない。