MBBS(フレズノにあるMBの神学校)の神学的証言についての声明

(声明の中核的考え)
私たちは、再洗礼的で福音的な聖書神学について証したいと思います。その教えは以下の通りです。教会は、共同体(存在する)、僕(行動する)、使者(語る)として、聖霊の力によって、この世界に神の支配を示すために、イエス・キリストによって召されています。


 2006年秋に、メノナイト・ブレザレン聖書神学校(MBBS)は、『私たちは、再洗礼的で福音的な聖書神学について証ししたいと思います』で始まる声明を書き上げました。この声明はMBBSの2つの一貫した目的を記しています。第一に、この声明は、MB教会が信じている事柄を明確に述べています。第二に、教会の指導者や神学者である私たちがMB教団を導こうとしているその方向性について述べています。この神学声明は、私たちのMB信仰告白を短く要約したものです。

 自らの信仰を語るのに、なぜ私たちは「聖書神学」、「再洗礼派」、「福音派」という言葉を用いるのでしょうか? このような言葉はどこから来るのでしょうか? 私たちの物語を見直しながら、これらの言葉の意味合いを考えてみることにします。

 私たちメノナイト・ブレザレンは、自らを聖書の民と常に考えてきました。使徒信条などの初期の信仰声明を受け入れつつも、私たちは自らを「信条的」というよりも「告白的」であると表明してきました。つまり、私たちは、聖書時代以降に教会によって作られた文書群よりも、聖書を信じ、聖書を学び、聖書に従ってきたと告白しているのです。私たちの信仰告白は、(神によって霊感された)聖書を読むことでどのようにこの世界と私たちがつながるのか、そのような事柄を語っています。もちろん、私たちはその世界に対して神について証するのです。聖書の民として、「聖書は何と言っているのか」と問うことで、神学的課題や倫理的課題の解決を試みてきました。

 このような聖書的な信仰は、初代教会のダイナミックな状況を再燃させます。聖霊の導きによって、聖書を「ともに」学ぶために集まるのです。このようにして、使徒15章に記されているような初代教会にまねるのです。

 私たちは、「組織神学」と対照させる意味で「聖書神学」について語ってきました。私たちは両者を区別して用います。その理由は、私たちは特定の神学的なシステム(ルーテル神学、ペンテコステ神学、改革派神学、再洗礼派神学でさえ)よりも、聖書によって導かれることを追求してきたからです。私たちの基準は常に聖書であるべきだと考えてきました。私たちは「神学」という言葉を用います。それは、私たちは、聖書全体を読む必要性を認識しているからです。ある一つの聖書箇所を証明句として取り上げて、他の聖書箇所を無視するようなことは避けなければなりません。同時に、イエスの新しい教えが優先されるべきだとも考えてきました。私たちは、最初のレンズとして山上の説教(マタイ5-7章)を取り上げてきました。この山上の説教のレンズを通して福音書を読み、福音書のレンズを通して他の新約聖書を読み、新約聖書のレンズを通して旧約聖書を読んできました。「神学」という言葉は、解釈の必要性を述べているのです。聖霊の導きの下で、信仰の世界大的な共同体の内に、私たちは聖書を解釈したいと考えています。

 私たちは聖書の民であることを追及していますが、私たちの聖書解釈が最近の神学的傾向に影響されていることを忘れてはいません。MBの運動は、様々な外からの影響に対して開かれてきました。1860年に私たちの教会が形成されたときに、最初のMBのメンバーはメノ・シモンズの考えに賛同を表明しました。同時に、ルーテル派の敬虔主義的運動にも強い影響を受けました。その特徴は、1.グループによる聖書研究 2.個人的回心を生み出す温かい信仰 3.厳格な学びによって養われる思慮深い信仰 4.福音的な証し  初期MBの人々はもっと広く福音的な教会からの影響を受け入れようとしました。特に、世界宣教を推奨し、始まったばかりのMB教会の教会行政を援助したバプテスト教会がその例です。他の福音的な教会への開かれた姿勢は、今日のMB教会の特徴に受け継がれています。

 私たちは「聖書神学」について語っていますが、他のキリスト者たちも聖書が彼らの考え方の源泉であると主張していますし、私たちはそのことをよく理解しています。私たちの信仰を歪めてしまう外からの影響力をできるだけ小さくしようと試みてきました。その一方で、共同体として私たちは、私たちの信仰の歴史から聖書を解釈しています。私たちの共同体としての信仰理解を述べるのに、2つの特徴を挙げる必要があります。それは、福音派と再洗礼派です。ある人々はこの2つの特徴を積極的に評価しますが、ある人々はその2つの特徴を避けようとします。この2つの特徴について私たちが語りたいのは、(アメリカ型の福音派教会などのような)教会運動としてではなく、聖書の視点としてなのです。この2つの特徴は、互いに排除する関係ではなく、互いに協力し合い、重ね合うような関係として私たちは捉えます。両者を認める私たちの観点からすれば、聖書はこの2つの特徴を強く主張していると言えるのです。以下に、福音派と再洗礼派という2つの視点から私たちが学んできた事柄をまとめたいと思います。

 福音的信仰の主張を私たちは受け入れています(「福音的」という言葉自体が、「福音」すなわち「良い知らせ」を意味します)。個々人として私たちは、回心を通じて新生しました。それは、十字架上のイエスの贖罪死を信じることでもたらされる新しい命を賜物として受けることです(ヨハネ福音書3章、ローマ人への手紙3章)。私たちの神学的権威は聖書にあります(テモテへの手紙第二 3章15-17節)。教会としての私たちの使命は、イエスを証しし、人々をイエスに従うように呼びかけることだと私たちは理解しています(マタイ福音書28章18-20節、使徒行伝1章8節)。

 再洗礼派信仰の主張を私たちは受け入れています(「再洗礼派」という言葉は、幼児洗礼ではなく信じる者の洗礼を主張した16世紀の宗教改革者に敵対した人々によってつけられたあだ名です)。個々人と私たちはイエスの弟子(従い学ぶ者)として成長するために(マルコ福音書8章27-38節、 マタイ福音書5-7章)新生した、そのように私たちは信じています。私たちの神学的権威である聖書は、聖霊に照らされて、共同体の中で解釈されるのです(使徒行伝15章)。イエスの命令に従うという私たちの使命は、私たちの隣人を愛すること(マタイ福音書22章34-40節)であり、神との和解、私自身との和解、敵との和解、被造物との和解を通じて平和を作ることです(コリント人への手紙第二 5章17-20節、 マタイ福音書5章38-42節)。

 メノナイト・ブレザレンとして私たちは、福音的信仰と再洗礼的信仰の積極的主張を受け入れようとしています。そのような運動の短所を認識しつつも、各々の長所を積極的に受け入れていきたいと考えています。この2つの特徴を用いることで、両者の適合性や一致を見出したく思います。それは、福音的再洗礼派として私たちは、信仰の基準である聖書に従いたいからです。

 MBBSとしてまとめれば、私たちは「再洗礼的で福音的な聖書神学について証したい」のです。新しい千年紀のはじめにあたって、私たちの聖書解釈の結実であるMB信仰告白を示す目的が私たちにはあります。私たちは教会を忠実な弟子となるように導きたく思います。忠実な弟子化であるとは、信仰者の契約共同体に表わされているキリストへの個人的献身を意味します。私たちは、多くの人々と彼らが住むこの世界とがキリストと和解する、そのような聖書的ビジョンを継続して求めていきます。この世界が完全に神の支配となる日を待ち望みつつ、神の使者として働くことが私たちの使命なのです