聖書的平和主義への渇望14

5節 MBの賜物は「弟子の共同体」(コロニー)か。
 このことに魅力を感じる他教派の人たちはいつの時代にも現れてきているようである。前トリニティー神学校校長のケネス・カンツァーもその一人であった。彼は次のように語っている。


 「アナバプティストの際立った教理である『クリスチャン共同体』はいつも私を惹きつけてきた。福音派の殆どの人は口先ではこの教義に賛するが、真の意味においては深く関与しているのは、アナバプティズムの人たちである。クリスチャンとはイエス・キリストに従うように召し出された者たちであり、互いに仕え合うものである。ここにアナバプティズム特有の所属の意味があり、キリストに属し、お互いに属し合うのである。ここから独特のアイデンティティが生まれ、『我ら』と『彼ら』の概念、『信者』と『不信者』、『聖徒』と『この世』という考えが生まれる。我々の価値観はこの世のものとは異なる。この違いは非常に重要で、社会の標準から少しずれていると思われようと喜んで受け入れるに価するものである。今年アナバプティズムの多くは、このような交わりの力は『あがないの福音』と『ご自身を与えたもう聖書の神』から来ていると、今までに増して知るようになってきた。・・・」

 興味深いことは、日本MBの信者はこのような文章を「福音派の立場」から読むことになのであろうか。それとも、「アナバプティズムの立場」から読むことになるのであろうか。自分の位置を確かめる意味で考えさせられる文章である。おそらく多くのMB人は首をかしげながら、当然のごとく「福音派の立場」から読んでいることに気づくであろう。しかし、確かにこのようなコロニー的な視点をメノナイトの歴史が暖め続けてきてくれたことは見落としてはならない。また最近は、自由主義陣営のメソジストから、教会のコロニー意識、エイリアン意識の大切さを訴えるスタンレー・ハワワースのような学者も出てきている。彼は次のように、アナバプティズムのことを弁護してくれている。

「初期アナバプティストたちは、この世から撤退することを望んでいなかった。わたしたちも同様であるが、彼らは真の教会であろうとしたために、カルヴァン派ルター派ローマ・カトリック教会から弾圧されねることになったのである。彼らを撤退させたのは、彼らを批判する者たちの手から自分たちの子供たちが殺害されるのを守ろうとする思いからであった(そのほとんどがキリスト者であった)。アナバプティストたちは撤退したのではない。追放されたのである。」