信仰の純粋性を保つ妻とその妻を守ろうとする夫

 「信仰の純粋性を保つ妻とその妻を守ろうとする夫」このような風景がアナバプティズムをよく表しているように思えてならない。「信仰の純粋性を保つ妻」を危なっかしく思って守ろうとする夫。夫からすれば「おれが守ってあげたのに、妻は神が守ってくださったと感謝の祈りをささげる」ことに少しばかり不満である。ある夫はそのような妻であっても、何かしら誇らしげに思い、ある夫はそのような妻に苛立ちを覚える。妻はイエスさまに従いさえすれば必ず道が開かれると信じて疑わない。しかし、夫はいつも妻の行動を客観的に位置付けようとする。何しろ守ってあげたいという一心である。妻はアナバプティストであり、夫はアナバプティストを守ってくださろうとする何かである。ある場合は妻はアナバプティストであり、夫は国教会(政治的キリスト教)である。オランダでも、ある時期、妻であるアナバプティストたちは夫であるカルビ二ストたちから守られた。しかし、実際は宗教改革当時の西欧キリスト教は全体としてアナバプティストたちを追い出してしまった。純粋なアガペーは危なっかしいものだと言わんがごとくかれらは根絶された。アナバプティズムを考えるとはどうゆうことか、妻と夫の立場をごちゃまぜにしたキリスト教をもう一度整理することなのではないかと思う。確かに妻も危なっかしかった。でも夫も行き過ぎた。私はアナバプティズムのなかに危なっかしいアガペーの実践を見、夫的キリスト教のなかに冷静、冷血な政治的なフィレアの実践を見るような気がする。妻的キリスト教のバックに夫的キリスト教植民地主義が見えていたのが豊臣秀吉なのだろう。やはり、今の時代、二つを合わせてキリスト教を語りたくない。馬に乗るキリスト像(偽りの像)とロバに乗るキリスト像の両方を一緒くたにして語りたくない。戦うキリスト像(偽わりの像)と馬小屋のキリスト像を一緒くたにして語りたくない。それがアナバプティズムの気持ち、なのである。