聖書的平和主義への渇望11

3節
 またメノナイトは国教会制度の下にある「会衆の道」でなく、初代教会的な「弟子の道」を強調する群れであった。彼らは「会衆の道」と「弟子の道」を並べて、「あれかこれか」を急進的に選択するなかで、「会衆の道」の方を否定することで、「弟子の道」を確認してきたのである。あるいは「国家=教会体制」とその影響下にあるものを急進的に否定することで「弟子の道」を確かめてきたのである。であるから、メノナイトの「弟子の道」は「国家=教会体制」を極度に避ける意識が原動力となり、主だけに従う「弟子の道」を形成していった歴史を作った。その意味で、何らかの形で国家を視野に入れることなしには「弟子の道」が見えてこないという面を再洗礼派は教え続けてきてくれた。つまり再洗礼派の道は、体制教会に対するアンティテーゼの道でもあったのである。つまりイエスさまがピラトの前で「わたしの国はこの世のものではありません。」(ヨハネ18:36)と語ったときの姿勢と同じ姿勢を彼らは追求したのである。ですから1990年代の韓国やアメリカから輸入された教会成長論的な弟子訓練とは異なるものであった。