聖書的平和主義への渇望4

 これが門外のウェーバーが感じた20世紀初頭のキリスト教界の再洗礼派に対する雰囲気であった。しかし、奇妙なのは、実際は北米のピューリタン達は建国当初は「英国国教会に変わるカルヴィニズム的神政国家を目指すのだ」と言う幻を描いていた筈であったにもかかわらず、彼らが実際に実現していったものはカルビニズム的神政国家ではなく、再洗礼的自由教会体制であった。柳生望氏は北米の会衆派を例にあげて次のように言っている。「会衆派はアナバプティストとは組織的には直接関係がなく、そうした烙印をおされることを恐れたのも事実であるが、ただ教会観においてはアナバプティストに近いことは否定できない。」(アメリカ宗教の歴史的展開 附論 アメリカ・キリスト教の将来 ヨルダン社,1974,pp271-272)

 そのようなアメリカの一般キリスト教世界の奇異な現象を横目で見ながら、再洗礼派は彼らなりの独自なペースでピューリタンとは一線を引きながら生き延び、ようやくこの流れも平和を強調する穏健な福音主義グループの一つとして数えられるようになるまでになってきた。例えば、ガブリエル・ファッカーは現代アメリカの福音主義を6つの類型に分けているが、その6つのうちの一つとして、メノナイト派を「正義と平和の福音主義者」として分類してくれている。また最近、プロテスタントカトリックの翻訳チームで訳されたデイヴィッド・ボッシュの「宣教のバラダイムシフト転換」という書物のなかで、彼は「再洗礼派」のことを「彼らは宣教がすべての信徒に与えられた責務であることを主張した最初の人たちに属する」と評価し、他のメノナイトの歴史家が主張してきたように、「再洗礼派」だけが、中世カトリック時代の教会と国家の関係理解から離れた唯一の流れであったことも確認している。確かに、もともとメノナイト内においては、我々はカトリックでもなく、プロテスタントでもなく、アナバプティストであるという、第三の立場を主張する神学者を多く持っていた教派であり(W・クラッセン「もう一つの宗教改革」野村竹二訳 シャローム出版,1992 p.11)他教派とは別の歩みをしてきたという自覚の強い教派であった。