アナバプティズムにおける “an evangelical impulse〔福音主義的衝動〕”の輪郭・全体像を彫琢する

アナバプティズムにおける
“an evangelical impulse〔福音主義的衝動〕”の輪郭・全体像を彫琢する
福音聖書神学校 武田信嗣

     アナバプテスト=再洗礼派  アナバプティズム=再洗礼主義

 この発題に当たり、発題者が所属する日本MBと16世紀再洗礼派との距離感覚を知って頂くために、最初に、16世紀再洗礼派から日本MBに至る歴史を簡単に述べさせて頂きたい。

 16世紀再洗礼派から日本MBに至る歴史(異なる源流の合流?)
 日本MBは、16世紀再洗礼派運動を源流とする群である。最初の再洗礼派はツウィングリー門下で彼と袂を分かったスイス・ブレザレンであった。最初の再洗礼実施の1525年1月以降、彼らへの弾圧は激しくなり、1535年頃には事実上、根絶されたかに見えた。しかし最初の再洗礼実施から11年後、オランダにおいて、カトリック司祭メノー・シモンズ(1496〜1561)が「平和的再洗礼派」の群れに加わり、再洗礼派の一派メノナイトが再洗礼派の息を繋いだ。しかし彼らもまた追放され、最終的に生き延びた地はウクライナの荒野であった(1789〜)。そのウクライナのコロニーに、ルター派敬虔主義者たちが来訪し(1822〜)、彼らの説教でリバイバルが起こり、他のメノナイトから分離し、MBが誕生した(1860)。MB誕生後は、MBはドイツから来訪したバプテストの指導者の影響を受け、彼らの助けにより制度、信仰告白が整えられていった。その後、北米移住(1873)が始まるが、共産圏下残留組は想像を絶する迫害を受ける。北米移住組(北米MB教団創立1889)は北米の周縁的な位置で共同体を形成しつつも、次第に他の福音派と同様、時代のうねりを受けていく。そのような北米MBが56年前(1950)に、MCCによる愛と和解の戦後救済事業を引き継ぐ形で、福音宣教をスタートさせ、現在に至る。であるから、MBは再洗礼派の流れにあるが、創立当初からドイツ敬虔主義の影響を受けたことにより、今日まで自分たちのことを、再洗礼主義と敬虔主義を自然に統合した群のように歩んできた。現在の北米MBをLynn Jostは三脚の腰掛けにたとえて、北米MBは三脚の安定によって生きてきたと言う。

北米MBの三脚の腰掛け(不思議な同居)
 一つ目の脚 オランダの平和的再洗礼派(1536年〜)
   二つ目の脚、ドイツのルター派敬虔主義(1822年〜)
     三つ目の脚、ドイツのバプテスト福音主義、(1866年〜)
            感情主義、ディスペンセーション主義
             (ドイツBlankenbergのバイブル教団による)

オランダメノナイト
1536〜 ドイツ敬虔主義
1822〜 ドイツバプテスト
1866〜

 一つ目の脚「オランダメノナイト」は、再洗礼派独特の脚でありこれについては後述する。二つ目と三つ目の脚は他の福音派も共有したであろう脚である。二つ目の脚「ドイツ敬虔主義」は、ドイツ、オランダ、ロシアにおいて、再洗礼派運動への熱が冷めたところに現れた(デイル・ブラウン 敬虔主義 梅田興四男訳 キリスト新聞社2006. p.35)が、MBも同じように、このドイツ敬虔主義の影響を受けた。三つ目の脚、ドイツバプテストなどの影響は、MBにとっては、根本主義を象徴する脚でもあり、日本MBのディスペンセーション神学もここに起因する。北米MBは、MB内でのディスペンセーション神学をある時点で相対化させたが、日本MBにおいては、CD神学、RD神学からPD神学に神学的立場を移行させたことにより、結果的にディペンセーション神学を自然な形で再洗礼主義に接近させている。さて北米MBが今日まで、全く歴史的、神学的に異なる三つの脚を辛うじて安定的に保つことができたのは、五百年間の生活共同体(コロニー)の名残を今日まで残存させたからであった。しかし今後も同じような形で安定した三脚を保てるかの保証はない(Robert Ennsの「一体何がMBの中で起きているのか」2004を参照)。今回、歴史的にも最も長く、MBに影響を与え続けた最初の脚、すなわち、16世紀再洗礼派の福音的衝動について述べたい。

1、再洗礼派は破壊者? 正統派? 急進派? 分離派?
破壊者?・・・・「社会制度、道徳基礎の破壊者」(ハインリッヒ・ブリンガー、1504〜75)、「伝統的なコルプス・クリスチアヌム(キリスト教圏)の理念を根底から破壊したセクト集団」(倉塚平、田中真造、出村彰、萩原溢恵、森安一編訳「宗教改革急進派」pp.11、12)

正統派?・・・「初期のメノナイトは聖書の権威にかんする彼らの教えにおいては、あくまで正統派であった」(ジョン・ホーシュ、機関誌ゴスペルヘラルド1910,7)
「彼の聖書信仰については、彼の肖像画に描かれている彼が、いつも聖書を指していることと、また『ただ神のみことばを私たちに示していただきたい。そうすれば問題は解決するのです。(メノー・シモンズ全著作集「キリストの教義の基礎」、p129)ということばによって知ることができる・・・・」(有田優 真の教会を求めてーメノナイト・ブレザレン源流をさぐるー)

急進派?・・・・「俗権提携型宗教改革」に対して「急進的宗教改革」(ジョージ・ウイリヤムズ)

分離派?・・・・アリスター・マックグラスは「宗教改革の歴史という観点からすれば、分離主義は普遍的な福音派の立場というより、特別にアナバプテストの立場である。」と述べて、普遍的な福音派と再洗礼派を対置させる。またオランダの改革派神学者ファン・リューラーも、キリスト教的思想と再洗礼派的思想を対置させて、現代キリスト教は再洗礼派思想、つまり分離という根本思想に屈してしまっていると言う。(A。ファン・リューラー、伝道と文化の神学、長山道訳 教文館.PP122)一方再洗礼派研究家ロバート・フリードマンも、16世紀再洗礼派は伝統的な定義に従えば、再洗礼主義は、やはりプロテスタントではなく別の次元の運動だと言う。またW・ウォーカーは、「宗教改革者たちの後期の著作がいずれも・・・一方ではカトリシズムとの対比で、他方では再洗礼主義との対比で、福音主義的信仰を弁証していることは意義深い」(W・ウォーカー キリスト教史3 宗教改革 ヨルダン社.1983,p.72)と述べている。このようにして、再洗礼主義は分離主義の象徴とみなされた。ただここで注意すべき重要な側面は、実際は16世紀の彼らは分離推進者ではなく、彼らの家族の生命を守るために分離せざるを得なかったこと、彼らは撤退したのではなく追放されたということである(S・ハワワース W.H.ウィリモン 旅する神の民「キリスト教アメリカ」への挑戦状 東方敬信 伊藤悟訳 教文館1999)。また最近の積極的評価の一つに「宣教が全ての信徒に与えられた責務だと自覚した最初の人たち」(デービッド・ボッシュ 宣教のパラダイム転換 上 聖書時代から宗教改革まで 東京ミッション研究所訳 新教出版社.1999,p.41)がある。

2、自由教会的に生きる再洗礼派
 日本MB初期宣教師ハリー・フリーゼンは、「メノナイト・ブレザレンの歴史」(MB教団出版委員会.1998)の中で、多種多様な再洗礼派論の一つ、自由教会先達論を日本MBに紹介してくれた。確かに国教会から分離した最初の自由教会の姿を最初の再洗礼はよく表わしている。しかし、そこから一歩進んで、単なる形態的自由教会でなく、神学的自由教会思想を再洗礼主義に求める有力な学者に、ジョン・ハワードヨーダーがいる。彼の立場については、「ポスト・コンスタンティアヌス主義」と言う言葉で理解できる。この立場が現在の再洗礼派全体に大きな影響を与えた。彼の立場に立つ、ポスト・リベラリストであるS・ハワーワス、W・H・ウィリモンの「旅する神の民」「キリスト教アメリカ」への挑戦状 東方敬信 伊藤悟訳 教文館1999、のあとがきに東方敬信氏が、次のように要約している。

 ジョン・ハワードヨーダー(1927〜97)がその主唱者である。彼は「根源的革命」などで「教会(コルプス・クリスティ)」と「キリスト教世界(コルプス・クリスティアヌム)を鋭角に区別する。彼によると、イエスは、弟子たちと若干の人たちとコルプス・クリスティを形成した。これは、コンスタンティヌス大帝から始まったコルプス・クリスティアヌムとは峻別されなければならない。コンスタンティヌス大帝は、キリスト教を公認し、ローマ帝国のいわば国教会とした。ヨーダーによれば、教会は、権力を聖別するような誘惑に陥ってはならない。しかし、その誘惑が現実となった。それだけでなく、ヨーダーのキリスト教史の分析は、さらに射程をのばしていく。宗教改革のあとでできたルター派及び改革派と領邦国家、英国と国教会などの世俗権力と教会の結びつきは「ネオ・コンスタンティヌス主義」になる。それだけでなく、近代革命の時代は、信教の自由が確立されていく時期であるが、アメリカ合衆国でも形式的に国家と教会は分離されてはいても、以前として議会にプロテスタントのチャプレンがいるような文化的影響力があり、ヨーダーはこの時代を「ネオ・ネオ・コンスタンティヌス主義」と呼んでいる。さらに、ヨーダーの現代神学に対する挑戦は鋭くなり、アメリカのボンヘッファー受容に見られる「世俗化論」や神の死の神学の「非宗教的解釈」も文化的影響力を気にするキリスト教世界の生き残り作戦だという。これを「ネオ・ネオ・ネオ・コンスタンティヌス主義」という。加えて、将来の社会革命をいまの教会で先取りしようとする解放の神学もコルプス・クリスティの独自性を無視、キリストへの奉仕を社会的有効性によって計ろうとするなら、コンスタンティヌス主義となる。したがって、解放の神学も「ネオ・ネオ・ネオ・ネオ・コンスタンティヌス主義」ということになる。それでは、ポスト・コンスタンティヌス主義の立場は、どうなるのであろうか。それはラディカル・リフォメーションの歴史的伝統に立った、自由教会の立場ということになる。それは形態だけでなく、神学的にも自由教会である。つまり、教会それ自体を固有の民をうみだす固有の文化として考える神学である。

3、恩寵に生きる再洗礼派
 オランダの片田舎のカトリック司祭、メノー・シモンズは、新約聖書的見地から「幼児洗礼」に疑問を持ちつつも、生温い中で司祭として生きる自分の偽善性に苦しみ、ついには「平和的再洗礼派運動」に身を投ずることとなる。彼はルターのごとく、罪意識で苦闘したが、自分の恩寵観を述べるときは、ルターの義認論ではなく、再洗礼派特有の恩寵観を表現した彼自身の言葉、「創造的愛」を用いた。メノー・シモンズの用いた「創造的愛」とは「(信じる者のうちに)実体的な変化をつくりだす神の行為としての恩寵」(有田優 真の教会を求めてーメノナイト・ブレザレン源流をさぐるー)ということであり、この言葉は、行ないに至るプロセス全体に強調を置く。つまり、ローマ書的なルターの「信仰義認」と、ヤコブ書的なメノー・シモンズの「創造的愛」と言うふうに理解できよう。現代の敬虔主義的な再洗礼派は、ルターの義認論は理解できても、メノーの「創造的愛」については追求段階にあると言えよう。なぜなら現在の敬虔主義的再洗礼派が「創造的愛」に生きるとき、理想主義、完全主義、律法主義の危険と戦わねばならないからである。

4、平和に生きる再洗礼派
 最近のMBの信仰告白である「ICOMB信仰告白」の部分に次のような記述がある。「ICOMB信仰告白」は二部に分かれており、二部の1は「聖書の民」、2は「新しい生き方の民」、3は「契約による共同体の民」、4は「和解の民」となっているが、4の「和解の民」の中の「平和の証人」の箇所に、「平和と和解はキリスト者の福音の核心部分である」(ICOMB信仰告白 2004)と書かれている。MBが信仰告白に、この文章を入れたのもメノナイトであることの所以であろう。今日まで、再洗礼派は二王国論的な政教分離、原始教会復元への限りなき渇望、師であるイエスさまによる「汝の敵を愛せよ」の言葉に「イエスさまの言うとおり」と言うふうに受け取るリアリティー、「創造的愛」などで、平和主義を守り通してきた。さらに現在の再洗礼派は、新約だけに集中するのでなく、 旧約のシャロームから導き出される平和神学を受け入れている。

5、共同体に生きる再洗礼派
 アナバプティズムの共同体は、個の集合体としての教会ではなく、それ以上のものであった。また、この共同体は過去のキリスト教圏に生きる共同体ではなく、選択可能なもう一つの信仰共同体(ICOMB信仰告白より)で生きるということであった。ロバート・フリードマンは、「ひとは兄弟と一緒でなければ、神のもとにくることができない」という命題を紹介している。(ロバート・フリードマン アナバプティズムの神学 榊原巌訳 平凡社 1975,p.126)

さいごに
 16世紀再洗礼派を研究する21世紀の再洗礼主義神学は多様である。おそらく、その多様さのゆえに、再洗礼派の福音主義的衝動の全体像をなかなか説明しきれないと理解している。ただ最近、最も保守的なメノナイトが福音主義に心を開き、彼らの平和部門における所産を、教派を超えて提供し始めたことは興味深い。たとえば、日本における東京ミッション研究所の働きはそのような保守的なメノナイトの人たちの祈りから生じたものである。