1990年頃、金田福一師の書物から教えられたこと

1990年頃、金田福一師の書物から教えられたこと(16)

16、「赦してくださった」という感動がないなら、「赦す」という傲慢があるだけ。

1990年頃、金田福一師の書物から教えられたこと(15)

15、私たちは赦して頂くものです。これを失ってはなりません。

1990年頃、金田福一師の書物から教えられたこと(14)

14、人の非難を聞きますと、自分の罪を言われているようで痛いのです。

1990年頃、金田福一師の書物から教えられたこと(13)

13、礼拝をやめたなら、自分の罪が気づかないようになることは事実です。

1990年頃、金田福一師の書物から教えられたこと(12)

12、「魂が救われてほしい」と思います。「魂が養われてほしい」と思います。

1990年頃、金田福一師の書物から教えられたこと(11)

11、不平をもらしている人は、どうでしょうか。

1990年頃、金田福一師の書物から教えられたこと(10)

10、放置ではない受容である神さまの赦しのすばらしさ。

1990年頃、金田福一師 の書物から教えられたこと(9)

9、神さまは、あなたと差しで、お話なさりたいのです。

1990年頃、金田福一師の書物から教えられたこと(8)

8、説教の前に心が変な感じになったとき、祈ったら、平安になります。

1990年頃、金田福一師の書物から教えられたこと(7)

7、近くにいらっしゃるイエスさまに「イエスさま」と呼ぶのが私たちです。

1990年頃、金田福一師の書物から教えられたこと(6)

6、主の御手が死の時一度離されるのだろうか? そんなことはない。

1990年頃、金田福一師の書物から教えられたこと(5)

5、御心がわからないと言います。でも、御心はあるのです。最上の御心が・・・。

1990年頃、金田福一師の書物から教えられたこと(4)

4、教会という集団は「赦してあげます」という集団ではなく、「赦してください。」

1990年頃、金田福一師の書物から教えられたこと(3)

3、人は摂理とか、運命とかいう。しかし、私たちは、主の御手という。

1990年頃、金田福一氏の書物から教えられたこと(1)

1、イエスさまがそばに居てくださることがわかると被害者意識から解放されます。