いつから武庫川は境界線になったのか

 阪神電車武庫川駅は西宮出口と尼崎出口に分かれます。西宮側の河川敷と尼崎側の河川敷は様子が少し異なります。いつから武庫川が二つの市の境界線になったのでしょうか。武庫川キリスト教会は西宮甲子園の家庭集会と尼崎大庄の家庭集会から、45年程前にできた教会ですので、この件に関して、今この教会で牧師をしている私は少し問題意識があります。昔は、尼崎市と西宮市という境界線はありませんでした。武庫郡という郡があり、武庫郡というのは今の夙川から昆陽池までを包む大きな郡でした。そのなかで、現在武庫川キリスト教会のある、尼崎市大庄(おおしょう、大島庄)は、武庫郡の最重要地域だったそうです。平安初期の武庫郡は賀美、児屋(昆陽)、武庫、石井、曾彌(曽根、今の鳴尾)、津門(つと)、廣田、雄田の8郷で構成されていたそうです。

 しかし、ウィキペディアによると、1942年(昭和17年)に大庄、武庫、立花の3村が、尼崎市に合併されたそうです。その時、大庄村では、武庫川対岸の鳴尾村などとの合併を構想する反対派と、尼崎市との合併を推進する派との対立が続いていたそうです。そのようななかで、前年に合併推進派の平瀬巌若が村長に就任したことにより、尼崎への合併が決定されました。なお反対派の合併構想では、「武庫川市」という新市名が検討されていたそうです。私としては、境界線がどうであろうと、武庫川が川の名前だけでよかったと思っています。私たちの武庫川キリスト教会は川の名前の教会だから・・。

 先週、京都在住の90に近い一人の牧師先生が教会を訪問されました。以前枚方バプテスト教会連合の教会の牧師であられた方です。その牧師は、子供の頃、武庫川を歩いて渡った時が懐かしかったので、武庫川キリスト教会を訪れてくださったそうです。その頃はまだ尼崎合併前の大庄村の時代で、その頃は、日本一の大きな村だと言われていた時代でした。