物質主義と運に振り回される日本人へ(Ministry冬号のインタビューより)

 ウィリアム・ウィリモンという私も感化を受けたことのある神学者がインタビューのなかでこんな話をしていた。私はエバンジェリカル、彼はポストリベラル、私はメノナイト、彼はメソジスト、立場は違うが、彼とスタンレー・ハワワースと言うデューク大学の教授から多く感化を受けてきた。彼が甥から聞いた情報は、経済状況が今よりよかった少し前の時代の情報のようにも思うのだが・・・。


 ウィリモン 日本人女性と結婚した僕の甥は、キリスト者ではないんだけど、僕にこんなことを言ったことがあるよ。「日本に来て初めてキリスト教を尊敬するようになった」と。「どうして」と僕が尋ねると、「日本の文化は、物質主義に対して歯止めのない文化なんだ」と言うんだね。僕は、日本人のほうがアメリカ人よりも貪欲だとは思わないけど、それでもアメリカではいつでもキリスト者の中から、「神さまはそんなことを望んでおられない。人間の一生は、何を持っているかなどということでは判断されない」という疑問の声が上がる。「でも日本ではそうゆうことがまるでない」と甥は言うんだ。「妻や子どものことも顧みずに、朝から晩まで働いて、しゃれた車を買うことに疑問を持つ人がほとんどいないんだ。だからこそキリスト教は日本において本当に伝えるべきことがあるかもしれないと思う」と。

 またオーストラリアに行った時、巨大なカジノが建てられていたんだけど、地元の人が言うんだよ。「これはオーストラリア人のためのものではなく、ギャンブル好きの日本人のためのものだよ」って。「運」を信じている文化の中で、福音にはどんな意味があるのだろう。そんなことを思わずにはいられなかった。「運」などと言う言葉は、キリスト者の信仰にはまったくないはずだ。だって、私たちキリスト者は「運」を信じるのではなく、「摂理」を信じているのだからね。


※「摂理」を別の言葉に言い替えると、神さまの御心、神さまのお考え、神さまの御思い、神さまのご計画、そんな言葉になります。「運」には、神さまのご人格がないのです。クリスチャンだって「ラッキー」と言うことがあるけど、一応は「ラッキーはクリスチャンの言葉じゃないですよ」と笑いの種にしながらでも、よーく覚えてもらう必要があると思いますね。