なぜ「主よ 讃美歌集をください」なのか(2)

 と言っても、「私たち」の曲を増やしていくことで解決できることでしょうか。いいや「私たち」の曲を増やしていくことで何の解決にもなりません。「私たち」を増やして、共同体的な歌を増やすことは一見すばらしいもののように思えます。しかし「私たち」程、わかりにくいものはないのです。つまり、ある人は「私たち」と言う時に、「二・三人」の共同体をイメージするでしょう。ある人は「私たち」と言う時に「50人」ぐらいの教会をイメージするでしょう。ある人は「1000人」ぐらいの教会をイメージするでしょう。ある人は全体教会をイメージするでしょう。ある人は国教会的な共同体をイメージするでしょう。ある人は自由教会的な共同体をイメージするでしょう。ある人は信者と未信者のボーダーを曖昧にしたものをイメージするでしょう。ある人は文化を越えたものをイメージするでしょう。ある人は分離したコロニーをイメージするでしょう。つまり「私たち」で共同体をイメージすると言いますが、そんなたやすいものではなく、誤解が生じやすい「私たち」であることを認識する必要があるのです。ですから、ドイツ敬虔主義の影響を受けた一対一の敬虔主義的な讃美歌が中心にあることは、まずは意義あることです。