A≠B B≠C A≠C なんですよね

 以前、データーベースソフト「ファイルメーカー」の古いバージョンを愛用していましたが、検索する時、「=」(完全一致)と言う記号をよく使用します。全く同じ用語を検索する時に使うのです。ですから用語を検索する場合は「=」(完全一致)の用語がちゃんと検索されます。さすがです。

 ですから、当然のように、A=B B=C ならば、A=C という論理もちゃんと成り立つわけです。しかし、聖書が示す、三位一体なるお方は、A=B B=C A=C というふうな、「=」(完全一致)のお方であるように見えて、実はそうではなく、A≠B B≠C A≠C なんですよね。

 なぜなら、二者間の対話というものは、「≠」でなければ不可能だからです。つまり、違う存在だからこそ、対話があり、違う存在だからこそ人格関係があり、違う存在だからこそ愛し合うこともできるのです。つまりAとBが「≠」であるがゆえにAとBは対話でき、BとCが「≠」であるがゆえにBとCは対話でき、AとCが「≠」であるがゆえにAとCは対話できるからです。ですから、私は三位一体の深遠さを思い描こうとする時、「≠」に注目しつつ、「最初に完全な人格関係ありき」「最初に完全な対話ありき」と言うふうに描きたいのです。

 ある方が書かれた、三位一体関連の本を少し立ち読みしていましたら、イエス様が父なる神さまに祈った祈りは演技だったんだと書かれてあり、ホントにびっくりしてしまいした。この著者は三位一体の「≠」を信じれないんだなあ。もちろん、演技なんかじゃない。イエス様の祈りは、真実の対話、真実の人格関係の姿だったんです。



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