1010、YesとNoが自由に言えるから安心だと思って頂ける私になろう

 YesとNoが自由に言えないなかに私たち日本人はいる。私自身がYesとNoが自由に言えたとしても、周りにはYesとNoが言えない人たちばかりである。ですから、不用意にNoと言うと、人々は離れて行ってしまう。またYesだけを言い続けていくと、いつしか依存的な関係ができあがってしまう。そのようななかで、とりあえず、この牧師は、YesとNoが自由に言えるから安心だと思って頂ける私になろうと思う。私がNoと言えなかったばっかりに、間違った情報を相手が受け取ったとしたら、やはりNoを言えなかったことに非がある。だから、恥ずかしくて、格好は悪いが、惨めであっても、優柔不断だと思われても、口で自分がNoと言った理由を説明することである。きっと、説明的になることは恥ずかしいことであり弱腰だと思われるであろう。でもそこまで言うぐらいが正直である。