1055、自分のなかに、神の「予知論」と「後追い論」の二つがあるようだ

 さすがに自分はカルビ二ストではないので、「予定論」ではない。昔のヘンリー・シーセンの組織神学で学んだ「予知論」ぐらいが信じれるところかなと思う。私にとっての「予定論」は、日本では「運命論」「宿命論」の影響下にある面があるので、それと似てくるような気がして、まだまだ身近な神学にはなっていない。どうしても冷たく感じてしまうのである。私はまだ穏健カルヴァン神学にもなっていないように思う。むしろ神との対話を強調するようになると、「予定論」は自分にとっては遠い存在となっていくように思っている。対話を強調するようになると、どうしても「後追い」の神学になっていくような気がする。これって一般組織神学の世界ではなかなか受け入れがたいものではないかと推察するが、わかる神学ではある。「後追い」の神学のほうがわかるというのは人間の親ならこうするだろうなあというふうな意味でわかる神学なんだ。もしかすると、放蕩息子物語も「後追い」の神学として読むならばもっと愛が伝わってくる。予定論のように、息子が帰ってくることが予定されていたと神学するよりは、ずっと諦めない神がいてくれたと表現されているほうがうれしい。神の熱心さ、愛、情熱に感謝。