1122、「なぜ神を人格と考えるのか」(社会学者ピーターバーガー)

 「究極的実在を人格神と捉える考え方と、非人格的な存在と捉える考え方は、どの宗教伝統にもある。だが、エルサレムを中心とする諸伝統は前者を重んじ、ベナレスを中心とする諸伝統は後者を重んずる、という一般化は許されるように思う。神は、人格的で、言葉を語り、人格として呼びかけることのできる存在なのか。それとも、人格存在を超えた実在で、みずから語ることもなく、人間の語りかけも届かない存在なのか。これはとても根本的な問いなので、ジョン・ヒックの提案するような「棚上げ」はできない。また(何人かの思想家が言ったように)、神はその両方であるとか、どちらでもないなどと言うのも意味がない。もちろん、究極的存在は、人間が作り上げた「人格」だの「非人格」だのといったカテゴリーで捉えることは不可能であろう。わたしが知りたいのは、むしろ、次のことである。はたして神は、わたし自身が人格であること(それは当然のことながらわたしにとつてはとても大切である)を否定せずに、わたしと交わりをもつことができる存在なのか。神が人格であるなら、神はわたしに呼びかけることができ、またわたしからも神に呼びかけることができるはずである。非人格的な究極的実在は、この「我と汝」の関係(マルティン・ブーバーの言う言葉)を超えたところにある。それは、経験的な自己の痕跡をすべて捨て去らなければ到達できない存在であって、この点こそまさに、この観点に立つすべての宗教の指導者たち(とりわけ優れた神秘主義者の多く)が唱え続けてきたことである。この観点からすると、先にわたしが挙げた原初的な宗教行動、すなわち祈りというものは否定される。もし究極的実在が非人格的であるなら、わたしは瞑想や精神と肉体の修行を通してそこに達しようとすることはできるが、それに向かって祈るということは意味をなさない。祈りの衝動はきわめて強く、すべての宗教に見られるし、熟達した指導者が「究極的実在は非人格である」と教える宗教にもある。たとえば、ヒンドゥ教のもっとも洗練された形態とされるヴェーダーンタでは、究極的実在は非人格と考えられているが、普通のヒンドゥ大衆はさまざまな人格神に向かって祈り続けてきた(ヒンドゥ教ではこの種の個人的信心を総称して「バクティ」と呼ぶ)、仏教の主要な教派は、究極的実在(「涅槃」、しばしば「無」「空」と表現される)がまったく人格を超えたものであると教えてきたが、一般の大衆、特に大乗仏教系の国々では、人格的な救済者(菩薩、つまり悟りに達したが後に残された衆生への慈悲のために涅槃に入らずにいる者)に祈るのである。ヒンドゥ教でも仏教でも(マックス・ウェーバーの言う)「達人の宗教」と「大衆の宗教」という二文法が見られる。これに対し、西アジアの宗教伝統では、神を人格と考えることがこのどちらにおいても中心となっている。エルンスト・トレルチがこの特徴をキリスト教に固有であるとしたのは正しい(ユダヤ教イスラム教にもこれが当てはまることを付け加えねばならないが)。聖書の神は、語り、聞く神である。そして人間の究極的運命は、この交わりの永遠性であり、あらゆる自我に溶け込んでしまう神性の海ではない。」(「現代人はキリスト教を信じられるか 懐疑と信仰のはざまで」ピーター・バーガー著)