1218、「迷える小羊」の例え話は「我と汝」「我とそれ」でわかる

「一匹」が強調されている。また「ちいさい」も強調されている。「一匹」は、「我と汝」(ブーバーの言う根源語)の関係を表し、「九十九匹」は、「我とそれ」(ブーバーの言う根源語)の関係を表す。話の聞き手はみんな、この例え話に納得することを前提にこの例え話が語られている。つまり聞き手はみんな「我と汝」を信じ、期待しているのである。理屈ではない、人間は本来、「我と汝」を信じ、期待しているのである。「永遠の汝」であられる神を信じ期待しているのである。

 

1217、自分から思わず出てくる言葉はいろいろな考えの影響下にある

「ラッキー」と思わず言った。ああこの言葉の根源は「すべては偶然だ」という考えから来ているのだろう。「しょうないなあ(仕方がないなあ)」と思わず言った。ああこの言葉の根源は「運命論、宿命論」から来ているのだろう。「信じればできる」と思わず言った。ああこの言葉の根源は「世俗主義、人本主義、楽観主義」から来ているのだろう。どれも神を信じぬ世界から来た言葉、なんだ。

 

1216、最も重要なのは、人格関係か非人格関係か、だ。

客観か主観か、を分けるようになった。

公同か自主か、を分けるようになった。

関係か存在か、を分けるようになった。

実存か歴史か、を分けるようになった。

でも究極的に重要なのは、やはり

人格関係か非人格関係かだ。

ブーバーの「我と汝」か「我とそれ」か、である。

牧会者はこの二つを認識して説教し牧会する。

 

 

 

1215、自分の耳が違ってきた、自分の目が違ってきた、自分の舌が違ってきたとしたら

私も60歳になった。今からこの認識に立っておこう。音には自信があった。でも自分の耳が違ってきているかもしれない。目には自信があった。でも自分の目が違ってきているかもしれない。舌には自信があった。でも自分の舌が違ってきているかもしれない。鼻には自信があった。でも自分の鼻が違ってきているかもしれない。あらゆるものを認識して批評する自分が違ってきているかもしれない。そう思える自分になった上で、他者の言葉に耳を傾けること、他者のお叱りを受けること、他者と対話すること、それも信頼できる相手と健康的に対話すること、これができるならば、私は生きていけると思う。つまり信頼できる人たちのなかで認識の調整ができる安全地帯を生涯、大切にしていくことだと思う。それから、私は信仰者だから、神以外のものを少しずつ相対化し、神の声だけが聞こえてくるような世界を探し求める。

1214、傲慢に比べれたら・・・は、ノミに食われた程度のことに過ぎない(CSルイス)

人は他人の傲慢を見ぬけると自慢する。でも人というものは、他人の傲慢はよく評価でき、分析できるものなのだ。何も自慢するほどのものでもない。批評的視点とか言っているが、本当は傲慢的視点であるかもしれない。ここが問題だ。なぜなら自分が傲慢であることがわからないことが一番の致命的なことなのだ。ルイスは他人の傲慢に嫌悪した分だけ自分のなかに傲慢があるというようなことを言っている。そうか、他人の傲慢に嫌悪したことが自分のなかに傲慢がある証拠なのだ。他人が自分に何か、自慢した時、見せびらかした時、自分のなかに傲慢がないならば、一切嫌悪することがない。でも嫌悪の気持ちが少しでもあるならば、やはり自分のなかに傲慢がある、ということなのだろう。自分の中にある競争意識が刺激されているのである。となると、私の成長はきっと、傲慢な人間の姿を見た時、嫌悪しないこと、キリストがなさったような意味での憐れみを身に着けることだろう。傲慢の位置からの憐れみでなく・・・である。

1213、まず論理、次に聖霊の余地、次に対話の余地・・・この順番かな?

論理→聖霊→対話→論理→聖霊→対話→論理→聖霊→対話→

合理→不合理→人格関係→合理→不合理→人格関係→

存在論→別の存在論→関係論→存在論→別の存在論→関係論→

神の御言葉→神の息→神の形→神の御言葉→神の息→神の形→

1212、災害多き日本だから、宿命論、運命論の説得力が強いんだろうなあ

 今まで、通し番号で書いてきましたが、「運命論」で検索したら、通し番号1が「運命論・宿命論は冷たくて寂しいよね、と言って宣教しよう!」2016-10-12、でした。実際、1990年代に日記に書いていたものをパソコンにあげたのが2016年10月12日、でした。今日も改めて思います。「運命論」「宿命論」は戦いがいのある相手である、ということです。アーメン

 

1100「日本人は、想像以上に仏教用語「縁」で生きている。さてどのように伝道していこうか縁、ですから、ということで伝道していくのは、日本人の心に届きやすいということがある。どう考えたら良いか。運命論や、宿命論や、仏教的な東洋思想を計算に入れて伝道すべきだということなのか。」

1055、「自分のなかに、神の「予知論」と「後追い論」の二つがあるようだ
…定論」は、日本では「運命論」「宿命論」の影響下にある面があるので、それと似てくるような気がして、まだまだ身近な神学にはなっていない。どうしても冷たく感じてしまうのである。私はまだ穏健カルヴァン神学にもなっていないように思う。むしろ神との対話を強調するようになると、「予定論」は自分にとっては遠い存在となっていくように思っている。対話を強調するようになると、どうしても「後追い」の神学になっていくような気がする。これって一般組織神学の世界ではなかなか受け入れがたいものではないかと推…」2018-03-14
947、「なんで関係がうまくいかない? 依存症と障害児の両視点で考えよう…ていくことだということだ。また発達障害の子供たちと、障害のない子供たちを程度の問題として連続線上に捉えつつ、理解を深めていく必要があることも教えられた。 依存症的視点であらゆることを関係障害として捉える傾向が私にあったが、これも行き過ぎてしまうと、運命論、宿命論に取り込まれてしまうことにも気づかされたことがある。例えば世代連鎖も世代間の関係論から起こることなど追求していくと、そうなってしまう。しかし今回の講演では、障害の視点で、シンプルに、脳の問題ですと言われてすきっとした。」2017-11-28

645、「今後の日本宣教:日本は運命論が強いので堂々と土俵で戦おう」2017-01-24

492、「12ステップでも世代連鎖実感から運命論が忍び寄る場合あり」2016-12-11
491、「政治家は日本人の運命論を上手に利用して政治しているかも」2016-12-11

490、「運命論日本にまれびとイエス様が来訪(亀井師)」ハレルヤ!2016-12-11
489、「運命論には人格的対話はない。もしあると運命論じゃない」2016-12-11
488、「運命論と被害者意識を同居させて安堵しようとするけれども」2016-12-11

487、「運命論は非人格的なのに、どうしてそんなに大切にしたいの?」 2016-12-11

486、「運命論は冷たいのに、どうしてみんな運命論から離れないの?」2016-12-11

256、「運命論は非人格的であり、本当の信仰は人格的である」2016-10-26
1、「運命論・宿命論は冷たくて寂しいよね、と言って宣教しよう!」2016-10-12