1211、社会に近づくベクトルと個人に近づくベクトルの両方に引っ張られている自分

社会に近づくベクトルだけに従うと、自分は意図しなくても、右の立場とか左の立場とか画一的な政治的な考え方に翻弄されてしまうことになる。反対に、個人に近づくベクトルだけに従うと、自分の信仰を押し殺すような、二元化が生じてしまう。まずはこの間で揺れつつも、保たれていく必要があるのだろう。社会近づくベクトルと個人に近づくベクトルを保つ現場は共同体があるが、共同体も、小さな共同体と大きな共同体は全然違う。小さな共同体は個人に近いが、大きな共同体は社会に近い。大きな共同体を維持するためにはどうしても包括主義しかない。そして優先順序のルールとセンタードの発想でまとめていくしかない。あとは実は大きくなったが、私たちは大きな共同体ではないんだよと大きな共同体意識を持たない大きな共同体を作るしかない。もう一つは大きな共同体よりも小さな共同体のほうが本物だという意識を持ってもらって、大きな共同体は小さな共同体を包括するが、小さな共同こそが本物だという意識で治めていくしかない。そのようななかで、教会は二つのベクトルの間で揺れているという意識だけはしっかりと持っておく必要があると思う。

1210、「私は神を信じる」と独り言を言う人たちよ

「私は神を信じる」だけでは神を信じたことにならない。「私は神を信じる」のならば、「私はあなたを信じます」と神さまに祈ることだ。なぜなら救い主イエスさまは弟子たちに「私の名前で祈ってごらん」と言ってくださったからだ。ですから、イエスさまの名前を用いて、「私はあなたを信じます」と祈るならば、必ず父なる神さまが答えてくださる。ここに信仰が働くのだ。「私は神を信じる」とだけ言い続けているだけならば、それは単なる独り言である。

 

1208、少し近づいたり、少し遠ざかったり・・でも教会から離れないで!!

距離の持ち方が一定じゃないのは当然。関係に動きがあるのは当然。教会は人格関係で生きているのですから。近づくことの冒険を忘れてはならない。冒険で疲れてしまっても決して離れてはならない。それが教会・・。キリストに近づくこと、キリスト者に近づくこと、キリスト者のあの人に近づくこと、うまくいかないあの人に近づくこと。ヨハネは互いに愛することは父からの命令だと言う。実際、イエスさまはそのように弟子に命令された。

1207、宗教は、いつしか中心が消滅し、真空管のようになっていくのだ

 宗教は、いつしか中心が消滅し、真空管のようになっていくので、表面・表象に力を入れるようになる。儀式化もそうである(儀式が問題なのでない、中心を失った儀式が問題)。今大切なことは、自分は中心からどれぐらい離れているかの自覚ではないだろうか。中心からどのように離れているのかの自覚ではないだろうか。中心から離れていることを自覚した時に、その位置から悔い改め(考え方を変える)ることができる。ブーバーは中心が消滅した宗教を「それ-宗教」と言う。

1206、宗教は我汝の二元性に、哲学は主観客観の二元性に基礎を置く(ブーバー)

 本物と偽物を分ける意味で、「キリスト教は宗教(religion)でなく関係(relationship)なんです。」「キリスト教はキリストなんです。」「キリスト教はキリストとの人格関係なんです。」と福音派は言い続けてきた。私も言い続けている。しかし、キリストを信じてキリストとの関係者になって、我汝の二元性に基礎を置いているはずのクリスチャンが、主観客観の二元性に基礎を置くような生き方に変容していく。しかし、キリストとの人格関係に基礎を置いているのが我々。Christ Centered

 

1205、メノナイトはアンチ神学だとあなた前から言ってたよと友人に指摘された

 私は今もカルビニズムという土俵を思い浮かべつつ、そのカルビニズムのアンチとして生きている。きっと私が穏健カルビニズムの超教派の神学校に行ったからだろう。カルビニズムのアンチとして生きているということは、カルビニズムの論理的な確かさの影響をかなり受けてきたからこそ、である。だからこそ自分なりにカルビニズムの受け入れがたいところを補完するような気持ちになってやってきたのだと思う。通常はそれを穏健カルビニズムというが、私は穏健カルビニズムではなく、一応、メノナイト 。