社会に近づくベクトルだけに従うと、自分は意図しなくても、右の立場とか左の立場とか画一的な政治的な考え方に翻弄されてしまうことになる。反対に、個人に近づくベクトルだけに従うと、自分の信仰を押し殺すような、二元化が生じてしまう。まずはこの間で揺れつつも、保たれていく必要があるのだろう。社会近づくベクトルと個人に近づくベクトルを保つ現場は共同体があるが、共同体も、小さな共同体と大きな共同体は全然違う。小さな共同体は個人に近いが、大きな共同体は社会に近い。大きな共同体を維持するためにはどうしても包括主義しかない。そして優先順序のルールとセンタードの発想でまとめていくしかない。あとは実は大きくなったが、私たちは大きな共同体ではないんだよと大きな共同体意識を持たない大きな共同体を作るしかない。もう一つは大きな共同体よりも小さな共同体のほうが本物だという意識を持ってもらって、大きな共同体は小さな共同体を包括するが、小さな共同こそが本物だという意識で治めていくしかない。そのようななかで、教会は二つのベクトルの間で揺れているという意識だけはしっかりと持っておく必要があると思う。
1209、「独話」の果てに汎神論的宗教あり、「対話」の果てに人格関係的基督教あり
30年ほど前のことである。一人の求道者が初めてお祈りにチャレンジしたのだが、途中で「独り言を言っているみたい」笑ってしまわれた。独り言でない世界がすぐ近くに近づいてきているのに・・・・
1207、宗教は、いつしか中心が消滅し、真空管のようになっていくのだ
宗教は、いつしか中心が消滅し、真空管のようになっていくので、表面・表象に力を入れるようになる。儀式化もそうである(儀式が問題なのでない、中心を失った儀式が問題)。今大切なことは、自分は中心からどれぐらい離れているかの自覚ではないだろうか。中心からどのように離れているのかの自覚ではないだろうか。中心から離れていることを自覚した時に、その位置から悔い改め(考え方を変える)ることができる。ブーバーは中心が消滅した宗教を「それ-宗教」と言う。
1205、メノナイトはアンチ神学だとあなた前から言ってたよと友人に指摘された
私は今もカルビニズムという土俵を思い浮かべつつ、そのカルビニズムのアンチとして生きている。きっと私が穏健カルビニズムの超教派の神学校に行ったからだろう。カルビニズムのアンチとして生きているということは、カルビニズムの論理的な確かさの影響をかなり受けてきたからこそ、である。だからこそ自分なりにカルビニズムの受け入れがたいところを補完するような気持ちになってやってきたのだと思う。通常はそれを穏健カルビニズムというが、私は穏健カルビニズムではなく、一応、メノナイト 。