TCCの説教学の授業で、流暢に話す説教が徹底的に批判された。私は注解書を読むような説教だったが、なぜか良しとしてくださった。この経験が私の説教に対する心の拠り所となっている。10年間は完全原稿、下を向いて説教しても良い、仕方がない、教会の寛容さのなかで牧師は育っていくものだという雰囲気を身につけた。今も変わらない。主観だと誤解されるような説教は牧会に反映していく。信徒説教者を期待しているが、ある人と和解ができていないなら、それだけで説教はできないだろう。説教というものはそうゆうものだ。慣れ、ではない。思い切り、ではない。未熟な説教と思われても、がっばって聖書に取り組む、その姿勢のもとで、教会は祝福されていく。アーメン
1226、教会は二元論の線をきちんと引くべきだろう。一元論的真理に気づいていても
今週の説教でも、この世と教会は違う、価値観が違う、というふうな説教になった。ただ合理的に二元論的に区分け仕切れるものではないことはわかっている。ただ世の価値観が教会に入ってきて、それはそれで良しとするような空気になったとすると、もう教会は教会ではなくなる。創造論的にこの世に神の価値観が残存していることを認めつつも、世は悪なりとの御言葉を心に受け留めて説教していきたい。
1223、何が大切なのか、何が残るのか、「叫び」だと本当に思うようになった
父が召され、母がホームに入り、父の書斎に入ることもあり、そうすると、クリスチャン一代目の父の叫びが響いてくるようになりました。父が召された時、葬儀で読んだ80歳の父が書いた手紙から叫びを聞き、素直に叫びを叫びとして受け止めることができるようになったのです。父があらゆる教派の礼拝、運動、講演会、委員会、セミナーに顔を出したのも、結局、父に叫びがあったからだということがわかるようになりました。父も叫びを聞いてくださる主と共に生きた人でしたが、しかし最後は、叫びを地上に残したまま、認知症になり、天に帰っていきました。ですから、今、私は父の書斎の椅子に座り、父の叫びを反芻することになっています。この父の叫びが2代目クリスチャンの私のエネルギーのようになりつつあります。つまり年代を超えて、叫びが引き継がれようとしていることの希少価値に使命さえ覚えるようになっています。