1227、説教は未熟な説教と思われても、主観が横行する説教と比較できないほど尊い

TCCの説教学の授業で、流暢に話す説教が徹底的に批判された。私は注解書を読むような説教だったが、なぜか良しとしてくださった。この経験が私の説教に対する心の拠り所となっている。10年間は完全原稿、下を向いて説教しても良い、仕方がない、教会の寛容さのなかで牧師は育っていくものだという雰囲気を身につけた。今も変わらない。主観だと誤解されるような説教は牧会に反映していく。信徒説教者を期待しているが、ある人と和解ができていないなら、それだけで説教はできないだろう。説教というものはそうゆうものだ。慣れ、ではない。思い切り、ではない。未熟な説教と思われても、がっばって聖書に取り組む、その姿勢のもとで、教会は祝福されていく。アーメン