無縁社会、無縁死

 昨日、教会から帰ると家内がNHKの番組を見て食事の準備をしていました。突然、目に飛び込んできた「無縁死」「無縁社会」とは、ショッキングな言葉です。社会との繋がりが断たれた状況で、最期を迎える人たちがこれからますます増えていくというのです。家族を失った社会、家族を作らない社会、作れない社会で人はどのような最期を迎えるかを見せてくださった、背筋がぞっとする内容でした。
 でも一筋の希望の事例も紹介されていました。番組の中で、離婚後一人で孤独に生きた男性、離れて暮らす愛娘も交通事故で失い、閉じこもる一人の男性の二階の窓を近所の一人の少女が屋根伝いにノックし続けた話、感動的でした。おじさんが心配だという、一人の少女からの一本の糸がこの人を生かしたのです。彼はこの少女の成長の記録を写真にしてアルバムを作って少女に送ったのだそうです。アルバムの中に「私のことを思い出してほしい」と書かれてあり、成人したその少女は、おじさんは自分たちの家族だったと語っていました。この話しを聞いた時、私はイエスさまの隣で十字架に架かった方が「私のことを思い出してほしい」と言ったら、イエスさまが「今日、あなたはわたしとパラダイス(天国)にいる」と言われた言葉を思い出しました。

 以前、私が強く影響を受けた「嗜癖する社会」 (A・W・シェフ、誠信書房)の行き着くところは、嗜癖を逃れようとするあまり、もしかすると、正反対の位置にある「無縁社会」なのでしょうか。番組を見ながら、ああ今ある家族、今ある共同体、を大切にしないと、と切実に思いました。共同体は努力だけでは手に入れれるものではない、キリスト教世界の用語を使うと「恵み」だと思います。ただ聖書は、神との関係が確立するなかで、絶対に神との関係は「無縁」にならない、という強烈な気持ちを与えてくれます。