人格関係について3・・連続物(現在、私の一番の関心事なんです)

 しかし、一方で、神学的、哲学的作業においては、キリスト教の本質的な部分に「人格関係」を置くことについては、かなり手間取ってきました。つまり、キリスト教の本質的な部分に「人格関係」を置くことを許さない、「何か」がキリスト教にあったのです。その「何か」のゆえに、例えば、現代のキリスト教は、「唯一神」=「好戦的」という間違ったイメージを未だに完全には払拭できないままでいるように思われます。その「何か」のゆえに、イスラム教文化圏とキリスト教文化圏との戦争に対して、日本のクリスチャンたちは戸惑いを覚えるのです。クリスチャンの場合は、もちろんのこと、体験的には疑いなく、キリスト教は「人格関係」の宗教だと信じているのですが、その「何か」のゆえに、「非人格的」側面が見え隠れしている。その「何か」を探っていきますが、その「何か」というのは、次の本質的問題から生じたものと考えます。

人格関係について4に続く