人格関係について(連続物)
※連続で見る場合、カテゴリーから人格関係(連続物)をクイックしてください。 このことを証明するには、実際にやってみれば良いのです。つまり、マルティン・ブーバーの言う「我と汝(対話的人格関係)」というものが、本当に二者間関係で可能なのか、三者…
つまり「3」は「多」と同じではなく、どちらかと言うと、「3」は「2」と同類だと考えるべきだと思います。なぜなら「2」と「3」にはわかりやすい「関係」ですが、「4」以上になると、わかりにくくなるからです。 以前述べたように、3者間の関係数は4通り(二…
このことを体験的に証明するには、マルティン・ブーバーの言う「我と汝(対話的人格関係)」を一つの物差しにして量れば良いのです。つまり、二人で可能か、三人で可能か、四人で可能か、五人で可能か、を順番に試して確認すれば良いのです。試してみてわか…
3は多なのでしょうか? 「3」と「多」は同じなのでしょうか。例えば、「1」が単数で、「2」「3」は複数だから、「3」は「多」なのでしょうか。いいや、「3」においては、マルティン・ブーバーの言う「我と汝(対話的人格関係)」は可能ですが、「多」において…
三位一体は多位一体(造語)なのでしょうか 「三位一体」と「多位一体」(造語)とを混同してはなりません。「三位一体」は「三位一体」であり、「多位一体」は「多位一体」ではないでしょうか。ですから、「三位一体」から「多」の概念を引き出す必要がない…
ここまで、「存在」と「関係」という二つの観点から述べてきましたが、もう1つの「目的」という観点を落とすわけにはいきません。まとめると次の三つの観点です。三位一体間関係に本質あり 三位一体の存在に本質あり 三位一体の目的に本質あり しかしここで…
さて、三位一体間における4つの「対話的人格関係」は、聖書から見い出し得るのでしょうか。4つの「対話的人格関係」のうちで、見いだし得るのは「父と子の二者の対話的人格関係」のみです。それも、父から子への言葉ではなく、子から父への言葉のみ、つまり…
15通りの人格関係の組み合わせを並べました。最初の1〜4の4つは、三位一体なる神の内部での対話的人格関係ですので、我々の側からすると、全く体験不能な未経験ゾーンです。ですから、1〜4の4つは、我々の側からすれば全然関係が持てない領域なので、絶えず…
そこで、人格関係性の組み合わせを一つ一つ検証していきましょう。 1、父と子の二者の対話的人格関係 2、父と聖霊の二者の対話的人格関係 3、子と聖霊の二者の対話的人格関係 4、父と子と聖霊の三者の対話的人格関係 5、私と父の二者の対話的人格関係 6、私…
またもう一人の「初めに関係ありき」の学者に、ポストリベラリズムの立場のエドワード・ファーレーを数えましょう。彼は「本来、神学というものは、関係性の学問であり、単なる認識論ではない」と述べ、アリスター・マックグラスも、エドワード・ファーレー…
「初めに関係ありき」? さて、そのようななかで、最近の霊性神学者ジェームズ・フーストンも注目する、スコットランドの宗教哲学者ジョン・マクマレーのギフォード講演に見られる「関係の中にある人」(persons in relation)という講演集は、どちらかと言う…
「関係論」と「存在論」を融合させる絶対的舞台としての「三位一体」 さて、私は三位一体の存在論的命題に注目するよりも、三位一体の関係論的命題に関心を向けます。なぜなら、歴史の神学者たちは三位一体の関係論的命題に注目することなく、三位一体の存在…
三つ目の理由は、二つ目の理由と関連していますが、こうゆうことです。「存在」は、対象化、客観化できるのですが、「関係」は、対象化、客観化しにくいという事実がある限りなかなか話しは進まないということです。それがゆえに、「関係論」というものは、…
二つ目の理由は、だったら、中世カトリックと異なり、宗教改革以降のプロテスタント教会は「存在論」から「関係論」のほうに関心を傾けたかと言うと、決してそうではありませんでした。近代西洋人はデカルト的な「個」に無批判に注目し、「個」の「存在論」…
「三つの位格(人格)間の関係性」が注目されなかった理由 一つ目の理由は、この議論はすでに古代に完結したものとされ、特に西方教会(カトリック教会)の関心事は、カトリックの権威確立のための「統一性」でした。ローマ帝国、後の神聖ローマ帝国は、統一…
「三位一体」から引き出される「関係論的命題」 そこで、「人格関係」を説明するには、下記の「関係論的命題」によらねばならないということになります。つまり次の4つの命題です。 命題5、父と聖霊との二者間の人格関係がある 命題6、父とイエスさまとの二…
「三位一体」から引き出される「存在論的命題」 まず、ここに「三位一体」から引き出される、四つの「存在論的」命題を提示します。今日まで三位一体論の命題は、この「存在論的」命題のみでした。しかしこの「存在論的」命題だけでは、「人格関係」を証明す…
本質的問題 この問題の根源には、本質的問題があります。本質的な問題とは何か。それは「神は一人なのに、なぜ『人格関係』的であり得るか」ということです。 つまり、もし神さまが合理的「一者」であるならば、アブラハム・モーセ等という他者に対して、人…
しかし、一方で、神学的、哲学的作業においては、キリスト教の本質的な部分に「人格関係」を置くことについては、かなり手間取ってきました。つまり、キリスト教の本質的な部分に「人格関係」を置くことを許さない、「何か」がキリスト教にあったのです。そ…
しかし、そうであったとしても、20世紀の画期的な「人格関係」研究によって現代人は驚くべき哲学的発見を見ました。それが、ユダヤ人思想家マルティン・ブーバーが、「我と汝」「我とそれ」という二つの根源語を我々に提示したことにより、「これは『人格関…
人格関係について は じ め に 決して「人格関係」的でないことが罷(まか)り通るキリスト教があってはならない、という切実な思いを込め、またクリスチャンたちが徹底的にキリスト教の本分と信ずる「人格関係」的に生き抜くための道を模索してみました。こ…