人格関係について4・・連続物(現在、私の一番の関心事なんです)

本質的問題
 この問題の根源には、本質的問題があります。本質的な問題とは何か。それは「神は一人なのに、なぜ『人格関係』的であり得るか」ということです。

 つまり、もし神さまが合理的「一者」であるならば、アブラハムモーセ等という他者に対して、人格関係的アプローチはできなかったのではないか、という本質的問題です。もし、神さまが一人ならば、「人格関係」の未経験者なのであって、そんな「人格関係」未経験者がどうして人類に「人格関係」的に啓示ができたのか、ということです。しかし、もちろんのこと、聖書の神は「人格神」として、アブラハムにもモーセにも「人格関係」的に啓示されていることを伝えています。聖書の記述は間違いなく、「人格関係」的に、アブラハムモーセ、その他の信仰者たちに啓示されたと読むことができます。彼らは決して神の非人格関係的な独り言をたまたま聞いたわけではありません。

 そこで我々は聖書の神が単なる合理的「一者」ではなく、すでにティルトゥリアヌス以来、信じられてきた「三位一体」の神であることを丁寧に証明し続ける必要があることに気づきます。「三位一体」の神を丁寧に証明し続けるべき理由は、聖書の神が、人格関係的伝達のできない、単なる合理的「一者」でも、単なる合理的「多者」でもないからです。単なる合理的「一者」でも、単なる合理的「多者」でもないとするならば、一体何なのか。そこで、我々は、我々人類に与えられた神からの驚くべき秘密、「三位一体」と言うすでに人類に与えられたパズルを解く旅に出ることができるのです。私はマルティン・ブーバーの言う「対話的人格関係」が、今なお、この秘密を解く重要な鍵だと思うのです。

人格関係について5に続く