どうしてホームレスの方が教会に来ないの?

 「魚の目」と言うウェブマガジンを他の牧師ブログから知りました。その中に、香山リカさんの興味深い連載がありましたので、面白いので最初のところだけコピーしました。「排除の構造」というタイトルで連載しているものです。彼女は自分のことを「求道者」と言っていますが、その求道者の声をこんな形で聞けるという意味で、牧師にとっては、聞きたい内容だと思います。つまり「すべての人は招かれています」と教会では言いますが、ホームレスの方が来ないのはどうしてだろうか、という問題意識を持たれたようです。興味のある方は http://uonome.jp/article/kayama



 友人に誘われて、数年前からときどきキリスト教教会の礼拝に出席している。
 とはいえ、洗礼は受けていないので、正確には信仰を持っているというのとは違う。教会では、私のような人間は「求道者」と呼ばれ、すでに洗礼を受けてそこの教会に正式に所属している「教会員」に比べて、微妙に参加できることに制限がある。
 なぜ礼拝に行くのか。その理由についてここで詳しく語ることはしないが、私が通う教会は都内でも人気のある住宅地の中に建っている。
 子ども時代の一時期、私は実家のある北海道で、小樽公園通教会の教会学校に通っていた。いまでも帰省が日曜に重なっているときはその教会に顔を出すこともあるのだが、礼拝堂の雰囲気は小樽と東京でかなり違う。
 ひとことで言えば、東京の教会は洗練されているのだ。不謹慎を承知で言えば、「ハイソ」ということになるだろうか。
 小樽の教会は超高齢者、退職者や無職者、精神疾患や身体疾患を抱える病者、シングルマザーと思しき人などが目立つのに対して、東京の教会には、きちんとした身なりの上品な婦人、賢そうな子どもを連れた若い夫婦、研究者然とした様子の男性、芸術家風の女性などが多い。教会員の所得や生活レベル、平均の学歴などは、明らかに東京のほうがずっと高そうだ。
 もちろん、だからどうだ、という話ではない。どちらの教会も雰囲気は和やかで、なかなか洗礼も受けようとせずに求道者のままの私にも、みな暖かく接してくれる。
 ただ、クリスマスやイースターなど教会にとっての特別な日が近づくと、どうしても考えてしまうことがある。