人格関係について5・・連続物(現在、私の一番の関心事なんです)

 「三位一体」から引き出される「存在論的命題」
 まず、ここに「三位一体」から引き出される、四つの「存在論的」命題を提示します。今日まで三位一体論の命題は、この「存在論的」命題のみでした。しかしこの「存在論的」命題だけでは、「人格関係」を証明することはできないことを先に述べた上で、論を進めましょう。

       命題1父は一人・・・・・・「一位」 
       命題2聖霊も一人・・・・・「一位」
       命題3イエスさまも一人・・「一位」
       命題4神さまは一人・・・・「一体」 

 まず、命題1、命題2、命題3、からは、「人格を持つ『一者』が三つ存在する」ということは説明できますが、それぞれの人格ある「一者」が「人格関係」を持っているということまでは証明できません。それで、命題4の「神さまは一人」という命題から「一体」であることを証明しようとしますが、果たして、「一体」(一つの実体)という概念だけで「人格関係」を証明することができるのでしょうか。

 例えば、「一体」を説く哲学として、「汎神論」(万物は一つの神であり、人類もその神に含まれるという考え)がありますが、汎神論者の語る「一体」は、マルティン・ブーバーの言う「対話的人格関係」を証明できるのでしょうか。できません。汎神論者の語る「一体」は「対話的人格関係」ではなく、むしろ「神秘主義的合一」です(スピノザ、西田)。

 例えば、「汎神論」的な東洋宗教の一つである禅宗の座禅の場合、「達人の宗教」(マックス・ウェーバー)は、一応に「座禅中に別の人格と交流してはならない」と言います。なぜならば、座禅の世界では「対話的人格関係」は邪念そのものだからです。反対に、「大衆の宗教」(マックス・ウェーバー)の側面の強い浄土真宗等は、「祈っても良い」と発表したこともありましたが、そのような浄土真宗であっても、本来的に仏教の瞑想というものは、マルティン・ブーバー的な「対話的人格関係」を受け入れてはならないのです。むしろ「原初的宗教行動としての祈り」(ピーター・バーガー)を避けようとするものなのです。
 ですから、私たちは、とりあえず、「一体」と言う概念と、「対話的人格関係」を分けて考える必要があります。もしかすると、厳粛な宗教感覚の側に立つキリスト教の対岸に人格関係の側に立つキリスト教があるかもしれないのです。ですから、「存在論的命題」だけでは、例えば「人格論」(パーソナリティー論)について証明できたとしても、「人格関係」そのものを証明することはできないのです。


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