人格関係について1・・連続物(現在、私の一番の関心事なんです)

人格関係について
                は じ め に

 決して「人格関係」的でないことが罷(まか)り通るキリスト教があってはならない、という切実な思いを込め、またクリスチャンたちが徹底的にキリスト教の本分と信ずる「人格関係」的に生き抜くための道を模索してみました。この論文は、厳密には、「人格」的と言うことではなく、「人格関係」的と言うことで、探ります。

               本   論

 キリスト教は「人格関係宗教」です。なぜなら、キリスト教の核心には「人格関係」があるからです。キリスト教の核心に「人格関係」があるということはキリスト教の核心の核心であられる創造者なる神さまが「人格関係」そのものであられるということです。しかし創造者なる神さまが「人格関係」そのものであられることを神学的に証明することは容易でありません。

 このことを神学的に証明することは容易でない理由としては、まず、現在我々が使用する「人格関係」という用語は、我々の原典である、旧約聖書にも新約聖書にも文字としては書かれていないことがあります(この論文の目的は、聖書中の「平和」と言う概念が、現代の「人格関係」と言う概念と類似していることを探ることですが・・・)。二つ目の理由は、神学用語としてだけでなく、一般用語としても「人格関係」という用語を使用してきた歴史が余りにも浅いということです。いや現代においても、まだまだ使いこなされていない言葉だからです。このような短期間の人類の「人格関係」用語体験を頼りに、どうして「初めに人格関係ありき」とか、「神から人格関係が来た」とか、「人格関係」の根源性を主張することができるでしょうか、ということになります。

人格関係について2に続く