日本福音主義神学会西部部会2014年度春期研究会議に出席して

 今回、「改革派」と「ルター派「と「再洗礼派」の三つの立場から「国家に対するキリスト者の良心」について発題と応答があった。私たちの再洗礼派の福音聖書神学校(日本メノナイトブレザレン教団立神学校)が会場であったことも光栄なことであった。最後の総括の中で、コーディネーターの先生は、日本の多くの福音派教会は「再洗礼派」みたいなものであると言われた。私もそのように思っている。日本の改革派、日本のルター派も、過去のキリスト教国が経験してきたような支配側に立つことを経験をしたことがないという意味では、日本の改革派も日本のルター派も「再洗礼派」の理解者ではないかと思えた。この発言を聞いたとき、以前、論文にまとめた、オランダ改革派のファン・リューラーの視点を思い起こした。つまり、ファン・リューラーは「現代キリスト教は再洗礼派思想、つまり分離という根本思想に屈してしまっている」という。しかし、あの頃から私は、なぜか、否定的に捉えてきた「分離」という言葉を肯定的に捉えようとしはじめるようになったように思う。もちろん神さまの側の深淵な一元論は信じるものとして、眼前の現実を「分離」で読み解くことは間違いではないと思う。

【以前の西部の福音主義神学会で発題した内容の一部】
再洗礼派は分離派?・・・・アリスター・マックグラスは「宗教改革の歴史という観点からすれ ば、分離主義は普遍的な福音派の立場というより、特別にアナバプテストの立場で ある。」と述べて、普遍的な福音派と再洗礼派を対置させる。またオランダの改革 派神学者ファン・リューラーも、キリスト教的思想と再洗礼派的思想を対置させ て、現代キリスト教は再洗礼派思想、つまり分離という根本思想に屈してしまってい ると言う。(A。ファン・リューラー、伝道と文化の神学、長山道訳 教文館.PP122)一方再 洗礼派研究家ロバート・フリードマンも、16世紀再洗礼派は伝統的な定義に従え ば、再洗礼主義は、やはりプロテスタントではなく別の次元の運動だと言う。また W・ウォーカーは、「宗教改革者たちの後期の著作がいずれも・・・一方ではカト リシズムとの対比で、他方では再洗礼主義との対比で、福音主義的信仰を弁証してい ることは意義深い」(W・ウォーカー キリスト教史3 宗教改革 ヨルダン社.1983,p.72)と述 べている。このようにして、再洗礼主義は分離主義の象徴とみなされた。ただここ で注意すべき重要な側面は、実際は16世紀の彼らは分離推進者ではなく、彼らの家 族の生命を守るために分離せざるを得なかったこと、彼らは撤退したのではなく追 放されたということである(S・ハワワース W.H.ウィリモン 旅する神の民「キリスト教国ア メリカ」への挑戦状 東方敬信 伊藤悟訳 教文館1999)。また最近の積極的評価の一つに 「宣教が全ての信徒に与えられた責務だと自覚した最初の人たち」(デービッド・ボッ シュ 宣教のパラダイム転換 上 聖書時代から宗教改革まで 東京ミッション研究所訳 新教出版 社.1999,p.41)がある。