聖餐式で祈るとき(対話軽視の神秘主義を遠ざけて・・・)

 最近、聖餐式で祈るとき、皆さんに「黙想と祈り、どちらでも結構ですが、まずお祈りから始めてください。」と言うようにしています。沈黙を背景に言葉が発せられる必要がありますが、黙想そのものが目的になってはならないからです。また沈黙を背景に神の御声を聞く必要がありますが、黙想そのものは目的ではないからです。黙想で自己を客観的に見ようとすることも意義あることでしょう。しかし私たちは黙想者であるより、むしろ対話者です。私たちは言葉を発しようとする神との対話者なのです。「神さま、このパンはイエスさまの裂かれし肉体を記念するパンなんですね。」というふうに祈ります。「神さま、この杯はイエスさまの流された血潮を記念する杯なんですね。」というふうに祈ります。また「二千年前の一度限りの十字架によって、私は赦されているのですね。ありがとうございます。」と感謝を捧げ、まだ告白していない罪を沈黙の中に発話するのです。そうするときに、信仰により、「もう罪を犯すなよ」という優しい御声が響くのです。私たちの主は、すぐに回復困難な「習慣化した罪」の回復のプロセスにあることも受け入れてくださり、回復を信じてくださる優しい御声を発してくださるのです。